火曜日, 7月 11, 2006

秘密の小箱

友人のロコさんの日記に、
職場で使っているマグカップが無くなっていて、探していると、
お掃除をしている人らしき人から、
掃除中に割ってしまった、代わりの物を用意します、
という、秘密のお手紙を見つけた、から始まり、
結局、薔薇の花の絵のマグカップが、
再度のお手紙を添えて用意されていた、という下りの、
心温まる話が書かれていた。

その日記が書かれていた頃、
ちょうど、わたし、Giovanniの職場では、
お掃除をしてくださるオバちゃん(親しみを込めて)たちの、
所属されている会社が契約切れになるとのことで、
永年、慣れ親しんでいた方たちと、お別れする事になっていた。

感謝の意味を込めて、ささやかな贈り物などを差し上げた
(らしい、わたし、Giovanniは休暇中であった)ところ、
オバちゃんたちからも、記念に、と、お品物を頂戴したのだった。

それは、休暇から戻って、
あ、それ、オバちゃんたちから、Giovanniにって、
と、言われて受け取った、
包装紙にリボンのシールが貼られた、四角い箱だった。
長い休みの後で、バタバタしており、
数日、その箱は、デスクの上に放置されたままになっていたのである。

ようやく、家に持ち帰り、さらに開けそびれている間に、
件の、ロコさんの日記を読んだのだった。

これって、まさか、薔薇の絵のついたマグカップ?
そう、思うと、箱の大きさと言い形と言い、
イギリス人の選ぶタイプの、細身の姿をした、
それこそ、薔薇の花やハーブの絵などがプリントされた、
ティーカップが入っていればピッタリな様子。

普段から、自分の持ち物使う物などの、色や柄にはコダワリがあり、
自分のメガネに叶わない物は、
持っていたくないというタイプの人間である、わたし、Giovanni。
ドキドキしながら、どうか、どうか、と、祈るように、
しかし、半ば諦めた気持ちで、その小箱を開けたのであった。




















小箱から出て来たのは、
何と、切り子硝子のコップだった。
こう言っては何だが、決して、職人が作ったような、
切り子でも高価な部類に入る物では無いのは、明らかだったが、
それでも、青が冴えた、シャープで涼しい印象の中に、
不思議な温かみを覚える、素敵なコップだった。

これからの季節に、午後の早い時間から、
旨いつまみの二つ三つを並べて、
冷酒を呑んだりするのに、ぴったりな、硝子の器。

その、深い青い色に、島の海と空を思い出し、
ちょっぴり、うるる、と来てしまったりもするのであった。

月曜日, 7月 10, 2006

そろそろ、旅のおわり

時間が経つのの、まぁ、何と速いこと。
西表から帰国(まさにこういう感じ)して、
早くも10日も経ったのだ。

このブログで、色々と、旅について、
というよりは、出会った人たちについて、
書いてきたのだが、
今となると、あの島にいたことすら、
幻だったか、夢だったか、と思うほど、
日々の生活は、とても現実的である。

島の暮らしが、非現実、ということでは決してないが、
時間の流れ様や、何よりあの日差しと空の碧さは、
わたし、Giovanniの現実生活とは、
雲泥の差があるから、こんな風に、感じるのだろう。

人物を書くことで、自己満足に陥っているので、
少々、消化が悪いと思われる読者もおいでだろうから、
あまり触れていなかった、いくつかの出来事を書いて、
今回、次回あたりで、
シリーズを締めくくろうかと思っている。
もう暫く、おつきあい願いたい。

再三、お話ししたよう、
従兄弟、Gちゃんは、西表島エコツーリズム協会で働いている。
西表は、島の産業と行えば、観光、という現状であるが、
その反面、観光資本が、島そのものを破壊する、という
ジレンマがあり、
元々、個々が持っていた、環境を守り保護して行こうという、
気持ちを、一つにまとめる形で、このような協会が発足した。

今回の旅の計画の段階で、
Gちゃんから、滞在中の二日間をかけて、
島の色々な場所を見学するコースが、提案されていた。
ただ、こちらは、そこそこの老齢の女性が二人いるもので、
丸二日を、長時間車に揺られて、というのはしんどいのではないか、と
懸念した結果、
一日を、そういうコースにあてて、
もう一日は、各自で好きなように過ごそう、ということになった。

その一日目は、Gちゃんの采配で、
コバヤシさんという男性が、我々の運転をしてくださることになった。
このコバヤシさんもまた、西表に惹かれて、
東京での職を捨てて、やって来た人の一人だそうだ。

最初は、マーレ川の岸に咲く、サガリバナを見に行った。
サガリバナは、二人の女性たちの是非ともの希望で、
この時期に、房を垂らして咲くという花を求めて、
川沿いに下ったのだった。


サガリバナは、そのオシベが、ダチョウの睫毛の如く、
長くフサフサとしており、
そのオシベの抵抗によって、フワフワと宙を舞い降りるようにして、
散るのが特徴のようである。

マーレ川の周辺には、アダンというパイナップルと間違うような
実をつける植物も群生していた。
このアダンの葉は、ギザギザと、のこぎりのような形状をしているが、
実も、葉も、捨てる事の無い植物と言われており、
その葉は、十分に乾燥させて、カゴに編んだり、草履に編んだりする。
草履は、石垣の市場辺りでも2千円ほどで売られているが、
とてもとても、2千円ではもったいないくらい、
手間がかかるのだそうだ。

次に、我々は、野生生物保護センターを訪問。
イリオモテヤマネコは、まさに絶滅への街道をまっしぐらに進んでおり、
100頭を切っていると考えられている。
現在、最新の個体数調査を実施しているらしく、
その結果如何にによっては、いよいよ、本格的な保護と繁殖の為の
飼育も開始されるかも知れないのだそうだ。




西表島がもう一つ危惧しているのは、外来種生物による、
西表島の生態系の破壊で、
建築資材などと一緒に島へ渡ってくる、オオヒキガエルなどが、
現在、早急な対策をとるべく対称として、あげられている。

西表の海洋生物を、間近に手軽に見る事の出来る場所として、
星砂海岸へ、次に案内された。
この海岸の砂には、珊瑚礁が細かく粉砕した物に混じって、
有孔虫と呼ばれる単細胞生物の遺骸ーこれが星型をしているーが、
多く見られる。




引き潮時には、遠浅になり、かなり遠くまで行っても、
海水はせいぜいくるぶしと膝の間くらまでしかなく、
それ位の水位の場所でも、
小さい、ちょうど、縁日に紙の網で掬うような、
金魚ほどの魚で、目にも鮮やかな青い色をしたのなんかを、
見る事ができる。

それでいて、所々には、珊瑚礁が深くえぐれている部分などに、
ぽっかりと、水深数メートルにもなるような、
大きな空間があり、シュノーケリング初心者などには、
もってこいの場所になっている。
(シュノーケリングの話は、次回、詳しく)

Gちゃんいはく、星砂海岸は、観光地である割には、
多くの生物を観察することのできる場所で、
3つの小さな浮き島のような島の合間合間に生える、
海藻類には、星の形をした有孔虫が生きた姿のままで、
付着しているのですら、
注意深く観察すれば、見つける事ができるらしい。

取りあえず、さらに、次回へ続いてみる・・・

木曜日, 7月 06, 2006

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

島で出会った人/石垣昭子さん
(実名で、良いでしょう。)



石垣昭子さんについては、ご存知の方もいるかも知れない。

"GAIA SYMPHONY"(『地球交響曲』)という、
龍村仁監督による、ドキュメンタリー映画シリーズの、
第五番に出演されている(交響曲を共に奏でる人、と紹介されている)
石垣さんは、草木染色作家である。

彼女のプロフィールについては、
ぜひ、こちらを参照して欲しい。

今回の、西表への旅のいくつかあった目的の一つに、
この石垣昭子さんを訪ねること、が、あった。


昭子さんのご主人である、石垣金星(キンセイ)さんは、西表島生まれの、
郷土史家・伝統芸能継承者であり、
昭子さんと共に、
消滅していた西表の染織芭蕉布の復興と制作を行うための
「紅露工房」を設立。
また、島の青年と「シマおこし運動」を始められた。
現代における、西表の環境を守る活動家の第一人者と言って過言ではない。

特に、約束などを取り付けていたわけではなく、
星砂海岸の帰りに、工房を訪ねたのだが、
生憎、金星さんは不在で、昭子さんが、迎えてくださった。

工房は、メインの道路から、少し脇を入ったところにあり、
細い道を、車を背伸びさせるようにして、進む。
小道の脇には、芭蕉布の原料となる、
糸芭蕉の木が、数本、植えられていた。

道を抜けると、工房の庭に到着し、車を片隅に寄せる。
大きな車での、賑々しい来客に、誰かしら?と、
首をかしげている女性が何人か、庭で作業をしていた。

アトリエの入り口で声をかけると、
芭蕉布の衣(ころも、と呼ぶに相応しい衣服)を纏った、
昭子さんご自身が、出てこられた。

瞬間、ええっと、どなたでしたっけ?
という表情をされたようだが、
叔母が名乗ると、すぐに、分かったと見え、
挨拶もそこそこに、
話題が、最近結婚し、こどもを授かった
GちゃんMちゃんの話に移ったのだった。

まぁ、冷たいものでも、と、
何の木だろうか?大きな木の下に設えられた、
木製の低いテーブルの周りの、
恐らく、芭蕉の木の切り株を工夫して作ったと思われる、
低いスツールを、それぞれすすめられた。

あの人たちは、名古屋のギャラリーの方達で、
ワークショップということで、来られてるんですよ、と、
庭で作業をしていた女性たちの事を説明してくださった。

そうこうしていると、昭子さんのお弟子さんで、
昭子さん同様に、涼やかな布を纏った女性が、
氷の入ったグラスと、小さく一口大に切ったパイナップルを、
運んで来てくれた。
盆を乗せた手は、概ね、肘のところあたりまで、
藍で、目の覚めるような色に染まっていた。

グラスにお茶を注ぐ、トクトク、カラリン、という音が
暑い午後のひと時には、オアシスのように響いた。

叔母と母は、熱心に、昭子さんのお話に耳を傾け、
また、結婚した二人と幼子について説明し、
そして、ここぞとばかりに、
染色について、金星さんについて、
質問を投げかけたりしていた。

が、わたし、Giovanniは、その工房の佇まいに、
色々と気をとられ、
お話を伺いながらも、ふらっと立ち上がって、
庭を眺めてみたり、
時折、やって来ては大木の枝に留る、鳥を観察してみたり、
アトリエの奥に、無造作に吊るされている、
作品の、遠巻きに見てみたり・・・

ゆっくり流れる、島の時間の中でも、
ここは、とびきり、時計の針が動くのに時間をかけているように
感じられたのは、
ゆったり、間を取りながら、話をされる昭子さんの人柄とも
関係性があるのではなかっただろうか。

作業をされている方たちがいることもあり、
長居にならぬようと、思いつつも、30分はお邪魔したようだ。
また、是非来て下さい、
若い夫婦のことを、これからもよろしくお願いいたします、と、
挨拶を交わして、名残を惜しみつつ、
再び、糸芭蕉の木に、車がぶつからないよう気にしながら、
工房を後にしたのだった。

旅が終わって、東京へ戻って数日、
こうして、色々な人たちの事を思い出したりしながら、
そう言えば、と、思い出したことがあった。

石垣夫妻を、叔母はどうして知っているのだろう?
そこんところの説明が、全く無かったことに、気がついた。
そこで、電話で母に聞いたところ、
意外なことが分かったのである。

母と、叔母の夫(母のいちばん上の兄、故人)の、
従兄弟に当たる人で、伊谷純一郎という人がいる。

この人は、京都大学理学部動物学科卒業後、
大分県高崎山のニホンザルの生態研究を皮切りに、
霊長類の社会構造研究の先駆けとなった人である。
後に、彼の研究の範疇は、
アフリカ、タンザニアのチンパンジーから、
その調査対象はヒトへと、拡大し、
1984年、イギリス王立人類学会より、
「人類学のノーベル賞」と称されるハクスリー賞が授けられた。

わたし、Giovanniにとっては、大叔父にあたる、この伊谷純一郎が、
数十年来の、石垣金星さんとの友人であった、というのだ。
そして、金星さんを、西表島に訪れるという約束を果たす寸前の、
2001年8月、肺炎で逝去したのだった。

西表島で、エコツーリズムというフィールドで仕事を始めた、
Gちゃんにとって、
金星さんとの関わりは、ある意味必然であり、
また、どこかに、金星さんとの交友を深めることが、
亡くなった大叔父の意志を継ぐことである、
という気持ちが、あったのではないだろうか?

もう少し、タネを明かすが、
Gちゃんの父親である、わたし、Giovanniの叔父と、
Gちゃんとわたしにとっての大叔父である伊谷純一郎は、
ただの従兄弟どうしではなく、
それぞれの両親が兄弟、姉妹どうし、
つまり、叔父の父の弟と、叔父の母の妹が夫婦で、
その長男が大叔父なのである。
したがって、叔父と大叔父は、従兄弟という以上に、
とてもよく似ており、
Gちゃんは、大叔父の中に、どこか自分の父親を
見いだしていたのではなかったかと思うのである。
そして、そういうことも、
大叔父の友人であった
金星さん、その奥様である昭子さんとの友情を、
深くしていった理由の一つとしてあったのではなかっただろうか。

現在、昭子さんは、Gちゃんが働く、
西表島エコツーリズム協会の会長をされておられる。
また、金星さんは、西表リゾート開発差止訴訟原告団呼びかけ人として、
活動をされておられる。

愛する島と、島の生命たち、島の暮らしを、守るために、
そして、この島のたくさんの恵みを、
世界の人たちに知ってもらおうと、働いておられるのである。

番外編 ー旅の写真集2ー




世の中には、便利なツールがたくさんありますね。

旅の写真、Flickrを使って、
UPしました!

遠慮なく、ご覧ください。

Giovanni、旅の写真集は、こっちさぁー

水曜日, 7月 05, 2006

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

島で出会った人/番外編

5日間なんて、あっという間!
ああ、もう帰国(!)だぁ、と、未練をたっぷり残しつつ、
石垣市街から、空港へ、M子叔母と向かった。

チェックインを済ませて、
空港の喫茶店で、石垣最後の食事をとる事にした。
あっさりめのスープの八重山ソバを食べて、
搭乗手続きまで、まだ少し時間があるから、
ここで涼みながら待ってましょうということになり、
暫く、旅の思いでなどを話しつつ、過ごしていた。

喫茶店は、チェックインカウンターを
見下ろす事のできる2階にあり、下を眺めていたら、
高校生らしい集団が、ゾロゾロと入ってきた。
最近の修学旅行は、石垣島なんかにも来るんですね、と、
叔母と話していたのだが、
手荷物検査の列が長蛇となってきて、
機中の賑やかに騒がしい様子を想像してしまい、
先が思いやられるなぁと、ため息をつく。

高校生集団の列が、短くなってきたので、
叔母を促して、搭乗の待ち合いへと先を進み、
ベンチに腰をおろして、搭乗時間を待っていた。

少し色のついたメガネに、
帽子を被った、華奢な男の子がやってきた。
あ!あれって、◯◯の×田△だ、と、
すぐに気がついた。
何人か、スタッフなのか、同行者がいるようであったが、
芸能人オーラのスイッチを完全にオフにして、
所在無さげに、壁際に立っている。
誰も、気づいている様子もなく、
叔母にそう言ってみたところで、どうなると思い、
黙って、時折振り返っては、彼の姿を見直したりしていた。

すると、次に、同じく◯◯の××っちと、△野が、
ぞろぞろと同行者を連れて、入ってきた。

ここで、ようやく、修学旅行の女の子たちが、
3人に気づいたようで、
あちらこちらから、あれ?とか、わーとか、まじまじ?とか、
小さい声が上がるようになった。

このまま、この石垣空港の小さな待ち合いは、
騒然、大パニックへと陥るのか、と、危惧したのだが、
ワーワー!と、今にも大きな歓声が上がりそうになる
高校生たちに向かって、
スタッフらしい若い女の子が、
まるで、手話のように、
唇に指をあてる、シー、のポーズと、
両手のひらを、ま、ま、落ち着いて、のように動かし、
軽くおじぎをした。

高校生たちは、その彼女の動作を見て、
案外、落ち着いた様子で、
そりゃそうだよね、キャーキャー騒いじゃ悪りぃよな、
と、納得したようだった。

石垣から、羽田まで、
わたし、Giovanniは、彼ら3人と、
至近距離で、旅を続けたが、その後も大きな混乱もなく、
よかった、よかった、と、思ったわけである。








まだ、続くよ。

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

島で出会った人たち/レイ子さん



島最後の夜、GちゃんMちゃんの招きで、
夕飯をご馳走になった。

『唐変木』という名前の、通常はカフェとして
営業しているお店を、借り切って、
我ら3人と、GちゃんMちゃん、
ゆうき君とMちゃんのお母さん、総勢、7名で、
お店に伺った。

カフェ、というに相応しい、
木をたくさん用いた、温かみのある店内で、
今日は貸し切りのためなのか、
テーブルを中央に寄せ、
向こう側に3名、こちら側に3名が座る事のできるよう、
席が設けてあった。

店内に入って、
先ず、目に飛び込んで来たのは、
テーブルの上に、すでに並べられている、
四角い盆に、いくつも並べられた、小皿や小鉢など。
思わず、みんなの口から、わーっ!と、歓声があがる。
ちょっと、お雛様のお膳のようにも見える。

わたし、Giovanni始め、母も、Gちゃんも、
それぞれのカメラを向けて、
写真を撮る間にも、さらに一皿、そしてもう一鉢、と、
最終的には、20皿鉢が並び、
品目としては、30種にもなった。

せっかくなので、記録として、
以下、写真を見ながら、どんな料理だったかを
書いて行こう。












先ずは、四角い盆に乗っているもの
左の上から右へ
◯ゴーヤとパインの酢の物
◯カーナとスーナ(共に海藻)とコマ貝のサラダ
◯紅芋とラムレーズンのサラダ
その下から左へ
◯ジーマミ(ピーナッツ)豆腐
◯ラフテイ
◯豚のナカミ(内蔵)の炒めたもの
その下
◯ミミガー(豚の耳)
その下から右へ
◯シロバナセンダングサのゴマ和え
◯アキノビシの和え物
◯クワノハのおしたし

お盆の右側の3皿
左の上から時計回りに
◯コンブイリチー(コンブの炒めたの)
◯煮物(パパイヤ・ニンジン・昆布巻きなど)
◯モズクのテンプラ/アーサー(海藻)のテンプラ/
ミジュン(片口鰯)の唐揚げ/いかすりみののり巻き揚げ/
紅芋もちのテンプラ

お盆の下(先付け)
左から
◯スクー豆腐/豆腐よう(豆腐を泡盛に漬けて発酵させたもの)/
オオタニワタリ(庭にも生えているような羊歯の新芽。茹でて
マヨネーズで)

お盆の左
上から
◯ナーベラ(へちまの若いの)の煮物
◯田芋の揚げ物
◯ホウビカンジュのおしたし
◯マチクの筍、マコモの焼いたもの

これ以外に、
◯タマ(魚)のマース(塩)煮(一人一尾)
◯イノシシのレバーの焼いたもの
◯カニのみそ汁
◯ご飯
◯ハワイ種パインと、ピーチパイン
がついた。













原型は、恐らく宮廷料理のスタイルなのだろうが、
レイ子さんの、抜群のセンスで、
現代風にも、アレンジがほどこされた、琉球料理の数々。
海藻、野草がふんだんに使われていることと、
日本の本土の、何でも醤油味、という味付けとは違い、
とても薄口の塩味で、食材の味が十分に分かる、
爽やかな味付けが、特徴的だった。

また、ヘチマや、パパイヤなど、
たわしにするばかりかと思っていたり、
食後のデザートとして食べることしか知らなかった、ものが、
料理として口に入るという新発見!

ここでも、島の暮らしがいかに、
自然の恵みを大切にしてきたのかを、見て取る事ができる。

言うまでもないが、これだけの料理を作るにあたっての、
食材の調達は、大層な骨折りだと思う。
まさに、馳走とうに相応しい、手間のかかりようだと思ったのだが、
料理そのものは、意外にも、一日がかりということでもない、と、
帰り、星立集落まで、我々を車で送ってくださった、
レイ子さんの助手の女性がおっしゃっていた。

その帰りの車の中で、
M子叔母が、その女性に、不意にこんなことを聞いた。
『レイ子さんは、もうおばあの年齢なのかしら?
髪が白いから、おいくつくらいなのかしらねぇ?』と。
いえ、いえ、まだまだ”ねーねー”ですよ、という返答だった。
確かに白髪ではあるけれど、元気いっぱいで、
レイ子ねーねーと、いかにも、皆から慕われながら
お店を切り盛りしている様子が伺われた。

わたし、Giovanniも、
次に島を訪れたら、レイ子ねーねーと、親しみを込めて、
呼ばせていただこうと思う。

ご馳走さまでした、レイ子ねーねー!

次回は、島で出会った人、番外編!
誰?誰?

日曜日, 7月 02, 2006

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

Mちゃんとゆうき君


(写真は、Mちゃんと愛犬。星立の浜でのシルエット)









Mちゃんとは、初対面だった。

Gちゃんと、Mちゃんの馴れ初めを語る叔母によると、
二人が最初に出会ったのは、随分昔のことらしいのであるが、
それは、お互いに顔を見た事がある、程度のことで、
Gちゃんが、長年住み慣れた大原地区から、星立集落へ越してからが、
二人がお互いを知り合い、愛を育む季節であったようだ。

Mちゃんは、まだ10代の頃から、
西表が大好きで、その魅力に取り憑かれて、
毎年何度も足を運ぶ多くの人たちの一人だったようだが、
ついに、3年前、住民票を移して、
西表の星立集落での生活を始めたそうだ。

一月ちょい前に、
二人の間に、ゆうき君という男児が生まれたことからも、
GちゃんとMちゃんが出会ってから、その後の展開が、
島の生活とはウラハラに、
随分、スピード感のあるものだったということが
容易に想像できるのである。

Mちゃんは、元々、東京都下の生まれ育ちで、
出産準備のための帰省の間も、
どうやら、名札に”Giovanni"と、書いてある人がいないかと、
キョロキョロしながら、わたしの職場にも
買い物にやって来ていたらしい。

Mちゃんも、西表を愛する事になるきっかけは、
この特別な自然の環境、海や、野生の生物たちに、
興味関心を抱いたことのようだ。
だが、星立集落に住むようになり、
島の人たちの暮らしを分かち合うようになってから、
この島の人たちが、永年、守ってきた風習や、
祭り、行事というものに、目が留るようになったと言う。

そして、そういう暮らしの基盤に、
自然を愛でると同時に、自然を畏れ、逆らわず、
上手く付き合いながら生きる知恵というものが
あるということを、
Mちゃんは再度発見したのだそうだ。

我ら、旅の一行が、星立に到着して荷を解き、
最初に、Gちゃんの家を訪ねたとき、
家には、自分たち自身も、
その前日に東京から帰って来たばかりの、
Mちゃんと、ゆうき君、
そして、初めて孫を島へ送り出すことの心配を、
少しでも和らげる為にご自分も同行された、
Mちゃんのお母さんの3人が、暑い午後のひとときを
過ごしていた。

Mちゃんは、ちょうど授乳中で、
我々が訪ねた事で、機嫌を損ねたのか、
ゆうき君が、大きな声で泣き始めた。
『かぁちゃん、おっぱいくれるの
止めんなよ!腹がすいたよ、おっぱいおくれ!』
と、言っているに違いなく、
我々は、挨拶もそこそこに、その場を引き取った。

意志のはっきりした赤ちゃんねぇ、と、
M子叔母は、感心しながらも、
赤ちゃんにはあの家は、暑いわねぇ、
クーラーを付けないのかしらねぇ?と、
幼いこどもを加えた、新しい家族の生活の今後を、
少し、心配していたようだった。

Gちゃんも、決して何も考えていないわけでは
ないのだろうが、
何しろ、夫婦もすっかり島の暮らしが当たり前になっており、
きっと、少々の不便はあっても、
自然の恩恵を、お父さんお母さんを通して、たくさん受け、
ゆうき君は、
逞しく、島のこどもとして大きくなって行くのだろう。

石垣から、東京へ帰る飛行機の中で、
M子叔母はこう言っていた。

『ゆうき君も、大きくなって、こんな狭い島の暮らしは嫌だ、と、
都会へ出て行くのよね、きっと。都会で大人になって、家族を持って・・・
そして、そのこどもがまた、ある日、会社を辞めて島へ行く、って
言い出したりするのよ、繰り返しよ・・・』

ゆうき君、Giovanniおじさんから、
沖縄で代表的な子守唄となりつつある、
元ネーネーズ・古謝美佐子の名楽曲
「童神( わらびがみ)~天の子守唄~」を、贈ります。
今夜も、星立の涼風(しだかじ)に吹かれ、おやすみなさい。



次回は、島で出会った人たち。

土曜日, 7月 01, 2006

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

Gちゃん






あなたが、もし、西表島ファンで、
毎夏行ってます、とか、年に2回は行きます、とか、
そういう人だったなら、
ひょっとすると、Gちゃんを知ってるかも知れない。

Gちゃんは、わたし、Giovanniより、3つほど年長。
祖母が生きていた、こどもの頃は、
夏休みの度に、鳥取の祖母のところで従兄弟姉妹たちが、
勢揃いになり、
男の従兄弟たちの最年長ということもあって、
Gちゃん、Gちゃん、と、慕われていたおにいちゃんだった。

今回の旅にあたって、
最後にGちゃんに会ったのはいつだったかと、
指折り、過去を辿ってみたのだが、
祖母の葬儀の時だとすれば、かれこれ、20年前になるのだろうか?

この20年のお互いの消息は、ほとんど知るところではない。
かろうじて、わたし、Giovanniは、
Gちゃんが、大学を卒業後、就職したけど、
会社を辞めて西表島へ行ってしまった、
という基本情報をだけは、知っていた。
だた、Gちゃんが、
わたしのフランス時代、インドなどアジアの旅人時代を、
知っているはずはなく、
恐らく、まだ何も世間を知らなかった、
ぽんやりしていた、Giovanniのイメージしか、
Gちゃんは持ち合わせてはいなかっただろう。

Gちゃんの母親である、M子叔母が
旅の行き帰りに語るGちゃんの過去20年を、聞かされて、
改めて、Gちゃんの人物像が、生き生きと浮かび上がり、
今、目の前で、授かった乳飲み子を抱く、
新米父親としての現在の姿に重なっていく。

学生時代から、西表の自然に魅せられて、
度々、この島を訪れていたGちゃんも、
就職をきっかけにして、
観念したのか、西表への旅をやめていたそうだ。

叔父が亡くなり、
叔母が一念発起で、住み慣れた家を売り払い、
通りをはさんだ、向こう側の家を購入して
引っ越す事を決意したとき、
Gちゃんが、叔母に、
『それなら、一緒にぶっとんでみよう』
(と、言ったかどうかは知らないが)と、
自分の決意を叔母に告げた。

会社を辞めて、西表へ行く、と。

会社勤めの3年間で、
大きなお金を蓄えていたそうで、
車を買うか、西表に行くか、迷った末、
西表移住を選んだらしい。

当初は、環境庁と沖縄県が運営する、
西表野生生物保護センターで、
まさに、イリオモテヤマネコなど、
絶滅危惧種と言われる動物を保護する仕事に従事し、
日々、調査や研究に明け暮れたのだそうだ。

本人は否定しているようだが、
その、イリオモテヤマネコの調査での実績が
高く評価され、
ツシマヤマネコの調査をすべく、
対馬への転勤を命じられたことをきっかけに、
同センターを辞したらしい。
それだけ、西表を愛していたということなのだろう。

西表の何に、Gちゃんは魅せられたのだろう?

野生生物保護センターを辞めた後、
Gちゃんは、西表エコツーリズム協会の設立に関わり、
現在も、そこでの働きを続けている。

西表エコツーリズム協会の設立の経緯や理念を、
改めて読んでみると、
Gちゃんが西表に向かい、そこに生活の基盤を置き、
そこから離れる事を拒んだ理由は、
単なる自然の美しさ素晴らしさに対する
憧憬のようなものだけに止まらず、
それらを破壊しようとしている大きな資本を阻止したい、
正しい生態系壊滅させる、いかなる原因をも根絶したい、
という、力強い積極的な姿勢があったのだということに、
気がつかされたのである。

ちょっとした会話の中にも、
西表の自然の生き物たちの話題が織り交ぜられる。
『ここから帰る間に、道ばたで、ジーっという
鳴き声が聞こえたら、何がいるか見てごらん』とか、
答えは教えてくれないけれど、
身近にいる生き物に、興味を抱くよう、
導いてくれるような、会話が楽しい。
こうやって、西表を訪れるたくさんの人たちに、
ここがただの観光地ではないのだということを、
知らせてきたのだろう。

GOひろみのモノマネをするときの声のような、
鼻を少しくぐもらせてちょっと甘えたように話す、
Gちゃんの独特な話し方は、今も昔と全く変わらない。
東京にいる都会っこだった、Gちゃんは、
いつの間にか、
イリオモテヤマネコを守り、マングローブを守り、
そして珊瑚礁を守り、
島の人たちの本来の暮らしを守る、強く逞しい大人に
なっていた。

もし、あなたが、西表島で、
アカショウビンや、有孔虫(こいつの骨が星砂!)について
熱心に語る、お兄さん(おじさん?)に出会ったら
それは、Gちゃんかも知れない。




そして、Gちゃんの生活を守ってくれる、
Mちゃんとの出会い、
それから、GちゃんとMちゃんに与えられた
守るべき存在、ゆうき君の誕生、と、
まだまだ、お話は続くが、
今回は、ここまで。

ペギー小淵沢の演歌歌詞(ス)解読講座 中半

雨の慕情

心が忘れた あのひとも

 まんずは、ここです。冒頭のところから、
 はっきりと、主(ス)張すていることが明確に
 表現されているのが、お分かりいただけますか?
 この女は、はっきりと、
 『あんたのことなんか、もうどうでもええんよ、
  何の未練もないわさ、もう忘れてすもうたわ』と、
 男とのきっぱっりとすた別れを、宣言すているわけでっす。

膝が重さを 覚えてる

  その反面、心は忘れてすもうても、
  体は覚えてる、という、
  すかも、その『重さ』を覚えてるという言葉に、
  ちょっとばかりの、エロティスズムを感ずながらも、
  さらっと、流すているところが、
  上手い、ホントに、上手い詩(ス)だなや。

長い月日の 膝まくら
煙草プカリと ふかし(ス)てた

  ここんところの解釈は、難すい。
  二つの、解釈が、一般的に言われております。

  一つ目は、
  この、『煙草プカリと』ふかすているのは、
  男のことで、膝まくらされながら、煙草を飲んでた、
  との解釈。
  二つ目は、
  女が、男を膝まくらすてた時(ズ)分の事を
  今となって、思い出すながら、煙草をふかすてる、
  という解釈。

  この箇所についての論議は、
  度々、”演歌歌詞学会”でも、取りざたされる
  議題でありますが、
  現在のところは、二つ目の解釈が、
  正統であると、言われております。
  これは、一つ目で言うている、男の行為は、寝たばこに通ずるところから、
  消防庁からの、強い要請もあって、
  寝たばこを推奨するような歌詞は、相応すくないと、
  考えられるようになったからですて。

憎い 恋し(ス)い 憎い 恋し(ス)い
めぐりめぐって 今は恋し(ス)い

  ここんとこは、わたすがいちいち説明するまでも
  ねぇでしょ。
  みなさんも、成熟した大人の女、同ずような、
  この、心の葛藤を、幾度も繰り返すて、
  ここまで、歩いておいでだということだと、お察すいたすます。

雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人 つれて来い
雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人 つれて来い

  さて、ここでクエスチョン。   
  この、男の職業は、何ですょ?
  
  サラリーマン?違います。
  ホスト?いいえ。
  ダンサー?まさか?

  答えは、現場監督。
  工事(ズ)現場の、監督さんです。

  雨が降ると、現場の仕(ス)事は、休みになって、
  それなら、ちょっこと、女のとっころでも
  行ってくるか、と、いうことになるわけです。

  だからこそ、女も、雨が待ち遠すいというわけです。
  雨が、わたすのいい人を連れてくるというのは、
  こういうすくみになっているわけですて。

さて、ここで5分間のトイレ休憩にいたすます。

(すーこっこっこ)












注釈:
『ペギー小淵沢の演歌歌詞(ス)解読講座』スリーズ、
実(ズツ)は、あんます、評判が良ぐなかったんで、
このまま、お蔵入りさせるつもりだったんだけど、
ひょんなところから、好評をいただいたもんで、
急遽、続きをアップすますた。
satomiさん、ありがとうございますて。

番外編 ー旅の写真集1ー

旅の事を書こうと思っていたら、
わたし、Giovanniの、全くの個人的趣味により、
人物伝を書く事になってしまった!

ああん、島の話や、海の話をもっと聞きたいのにぃ、
という皆さまも多いと思うので、
番外編として、
写して来た写真を何枚か、ご紹介しましょう!

まずは、ご覧あれ!
この美しい海を!




青い、と一口に言ってしまうのは、
申し訳ないくらい、青い。または、
蒼い? 
この色はどこから来るのだろうか?と、幼い頃に抱いていたのと
同じ疑問を、海に向かってぶつけてみたくなる。

冷たく冷やした、ミントゼリーのように、ひんやりと甘い、
というイメージだが、
水温は、温泉と紛うばかりに温かく、
味はもちろん、塩っからいのである。
にがり成分を、たっぷりと含んでいる濃い海水。

写真の、砂浜が写っているものは、
石垣島からボートで5分で渡る事の
できる、竹富島にある唯一の砂浜、
コインドビーチ。
ちょうど、大潮の時期だったので、
正午を過ぎるとどんどん潮が引いて、
かなりな遠浅になる。
ビーチの施設としては、
無料のシャワー小屋とトイレがあり、
飲み物販売と、ビーチパラソルを貸してくれる
ボックス車が1台いるのみ。
他に何が必要さ?

で、次の3枚は、さっき言った竹富島。
叔母と母は、牛車(速度時速3m?)で、
のんびりと、島内を巡っておりました。

わたし、Giovanniは、自転車を借りて、
島内一周の旅(約10分)!
完全に観光地化されてはいるのだけれど、
西表島ではほとんど見なかった、赤瓦の屋根が、
青い空に映えて美しい!
屋根の上のシーサー君も、何だかマンガちっく?

















とりあえず、今日はここまで!
番外編の次回もお楽しみに!

金曜日, 6月 30, 2006

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

M子叔母













今回の旅の、そもそものきっかけは、
M子叔母から、わたし、Giovanniの母への誘いから始まった。

M子叔母は、母の一番上の兄の奥さんで、
30年近くも前に、夫(つまり母の兄)を亡くした後、
自分の健康状態のこともあり、
早々に、海岸沿いにある老人ホームに入居して、
悠々と暮らしておられる。

長女次女はとうに結婚し、
末っ子である長男のGちゃんの結婚はどうなるのかしら?
と、やきもきもしつつ(恐らく)
まぁ、自分の事は自分で考えてるでしょうね、
と、持ち前の大らかな心で構えておられたのだと思う。

Gちゃんは、もう20年近くも前に、仕事を辞して、
学生時代から好きで通っていた西表島に、本格的に移住し、
環境庁のイリオモテヤマネコの保護の仕事などを経た後、
今は、西表島エコツーリズムセンターで働いている。

そのGちゃんが、いよいよ結婚することになり、
しかも、赤ちゃんも授かったというのを聞いたのは
いつだっただろうか?
十数年も会っていない、南の果ての島にいる従兄弟のこと、
と、何かお伽噺でも聞くように、
ぼんやりと母からその報告を聞いたと覚えている。

そんなお伽噺が、突然、非常な現実味を帯びてきた。
Gちゃんの奥さんになる、Mちゃんの東京の実家でのお産の後、
母子が西表島に帰ったら、
M子叔母が赤ちゃんの様子を見に行く事になり、
ちょうど夏の始まりの頃で、
サガリバナをはじめ、色々な花が美しく咲く時期と
重なるだろうから、と、母が誘いに乗り、
わたし、Giovanniも、
二人のオバさんたちのエスコート役として、
同行することになったのだ。

わたし、Giovanniも、早々から夏休みの申請を出し、
久々のちょっと長めの休暇をいただいて、
出発の日を、心待ちにしながら、最後の数日を過ごしたのだった。

関西空港から直行便で向かう母とは、
石垣島で落ち合うことになり、
わたし、Giovanniは、M子叔母と羽田空港で待ち合わせをした。
実は、3年前の冬に、M子叔母と母は、既に叔母の長女と3人で
西表島へ旅をしており、
その時は、母も羽田から飛んだこともあって、
わたしも空港へ見送りに行っている。

M子叔母とは、その時に、
やはり20年振り(祖母の葬儀のときだったか)に再会しており、
その時も、心密かに、随分お婆さんになられたと、呟いたのだったが、
今回は、その時からやはり、3歳分、
きちんと年輪を重ねられた印象だった。

さて、こんなお婆さんと、石垣へ到着するまでの数時間、
どうやって過ごすのか、と、心配したのだったが、
エアクラフトのシートにゆったりと腰掛け、
お話し好きな叔母の語る、様々な話に耳を傾けると、面白く、
いつまでも聞き入ってしまった。

GちゃんとMちゃんの馴れ初めを始め、
海外留学生を支援する財団で働く、長女U子ちゃんのこと、
捨てられた犬や猫を保護して里親を見つける仕事を
全くのヴォランティアでやっている次女N子ちゃんのこと、と、
家族の事を話される叔母が、
三人三様の自分の子どもたちの生き方を、
十分に理解され、激励したり、影でそっと支えたりされている事が
しっかりとした、叔母なりのヴィッジョンの中で、
明確に語られていた。

M子叔母は、
鳥取の旧い商家の長男である叔父に嫁いだのだが、
叔父は、自分が長男であるからという理由で、
実家の家業を継がなくてはならないという人生を拒み、
長年、銀行に勤務をされた人である。

昔の事なので、わたし、Giovanniも、
よくは知らないのであるが、
叔母の口ぶりからすると、叔母自身が
義理の両親と同居していた時代があったのだろうか?

あなたのおばあちゃんは、こうだった、あぁだった、という
昔の話の中に、わたしの祖母の事が幾度となく登場した。
祖母と叔母が、いわゆる世間で取りざたされるようなタイプの、
姑と嫁の間柄であったのかどうかは、知る由も無いが、
血のつながりはない祖母と、叔母自身の姿を、
重ねながら話をされることも、一度や二度ではなかった。
わたしのこういうところは、おばあちゃんに似たのかも知れないわね、
おばあちゃんも、こうして脚を投げ出して、
痛い痛いと、さすっておられたわねぇ、などと言われる。
叔母にとっては、自分が歳を重ねて行く中で、
高齢者としての一つのモデルが、祖母であるのは間違い無く、
たとえ、姑と嫁という関係において二人の間に何かあったにしても、
最期まで少女のように、また、歌人らしく生きた祖母の生き方に、
倣っていきたいと、考えておられるのではないかと思う。

M子叔母は旅の間中、何度も、長く生き過ぎた、と、
笑いながら言っておられた。
それでも、新しく買ってもらった、携帯電話とデジカメと、
悪戦苦闘しながら、
ゆるやかに、ゆっくりとではありながらも、
さらに、先へと進む事を止めず、歩き続けられておられる。

東京を離れること、はるか遠い、西表島への旅は、
意外にも、
自分に近しい人たちと、改めて出会う旅になった。










写真は、
サガリバナの木を眺めるM子叔母

次回は、Gちゃん。

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー













昔は、Giovanni=旅人、という公式が
当たり前だったのだが、
ここ、10年近く、旅らしい旅を、
ほとんどしていなかったことに気づかされた。

以前、旅が生活だった頃、
訪れた国は30カ国に迫り、
日々、列車や長距離バスに揺られながら、
西へ、東へ、北へ、そして、南へと、
移動する日々だった。

そういう旅は、決して、いわゆる世間で言う、
観光旅行、というのではなく、
何か、名所旧跡などを訪れることを、
目的としていたわけではない。
(結果的にそういう場所を訪れる事は
もちろん、あったが)

わたし、Giovanniにとって、
旅とは、
どこかへ行く、ことではなく、
誰かに会う、ということであるのだ。

それは、わたしが行く事を待っている人を
訪れるだけではなく、
わたしの未知な、そしてわたしを知らない
誰かを訪れることでもある。

今回の、西表島への旅は、
まさに、誰かに会う旅であった。
もちろん、西表島という場所を訪ねた事に
大きな意味があったのであるが、
それは、人と出会うことによって、
より意味のあるものとなったと言えよう。

10年振りの、今回の旅は、
『いのちのせんたく』の旅でもあった。

5日以上の休みを取った事がないと言うと、
ヨーロッパの友人たちは
まさに、腰を抜かして驚くのだが、
この10年、ずーっと、働き続けてきて、
少し疲れた心を、
十分にリフレッシュさせて
余りあるほどであった。

今回の旅については、
この旅で会った人について紹介しながら、
じっくり、書き記したいと思う。












次回は、M子叔母について。

日曜日, 6月 25, 2006

飛行機、南へ

Giovanni旅シリーズ、待望の第2弾!


明日朝、飛行機で南の島へ。
グアム?ハワイ?
Non! Non! Non!

国内でこんなに遠くまで行くの、
初めてで、
感覚としては、外国へ行く気分。

おばさん(おばあさん?)を二人
連れて行くので、
珍道中になること、請け合うが、
体も心も、ゆるーくして、
のんびりしてこようと思う。

来週末まで、さようなら!
行ってきます!

木曜日, 6月 22, 2006

3mm

わたし、Giovanniをよく知る人たちは、
わたしが、月に1度は必ず髪を切りに行くということを
周知している。

本当の事を言うと、或は、欲を言えば、
月に2回は切りたいのだ、髪を。
ここ数年、比較的短いヘアースタイルなので、
少し伸びてくると、
鏡の中の自分の姿に、がっかりしたりするのだ。

比較的短い、と、書いたが、
現在の短さは、数年前から、少しずつ、少しずつ、
短くしていった結果であり、
数年前の短さと、現在の短さを比べれば、
圧倒的に、現在のが短いのである。

この10年、同じ理容室で髪を切り続けている。
切ってくれる担当君は、何人か替わったけれど、
その理容室が大好きだ。(B&N下北沢店)

いわゆる、町の床屋さん、とは、
若干、趣きが違っていて、
一松模様の床のタイルと、ガラスケースにたくさん
飾られている、楽しい面々たち。
他人に聞かれると、『おっされー、な床屋』と、
説明するようにしている。

数年かけて、徐々に短くなりつつ
現在のヘアースタイル。
この際だから、ご覧いただこう。


(この画像に似ている人を知ってる人もいるようだが、
わたしは、あくまでも、Giovanniですから・・・)



限りなく、坊主に近くなってきてはいるのだが、
実は、わたし、Giovanni、絶壁頭なのだ。
よって、坊主にすると、後頭部の不細工さが、
バレバレになる。
なので、サイドやおでこの上あたりまでは、
3mmなのだが、
後ろは、あたかも後頭部があるかのような、
カモフラージュの意味もあって、
少し長さを残している。
その関係もあり、頭頂部も、やや長さがある。

でも、
本当は、”全体3mm”になりたかった。

3mmは、憧れ!
3mm、万歳!である。

仕方無い、シリコン入れるか?
後頭部に。

月曜日, 6月 19, 2006

ペギー小淵沢の演歌歌詞(ス)解読講座 前半

みなさん、あたくすが、ペギー小淵沢でございます。

あたくすは、普段は、福島(スマ)に住んでるんで
ございますが、
こうすて、月に2、3回くらっいは、
東京に寄越さすてもらってます。

こうすて、と言いますたのは、
こちらの区民会館の、カルチャー教室(スツ)で、
この、『ペギー小淵沢の演歌歌詞(ス)解読講座』
というのに、よんでいただいているというわけなんです。

あぁ、このペギー小淵沢という名前ですけど、
あたすの生まれた村が、小淵沢というだけのことですて。
ちなみに、ペギーのほうは、
うちの旦那様、いやいや、主人(スズン)のことですけど、
うちのダーリンとは、子どものときから知(ス)った仲で、若い頃、
『おめぇのその可愛いえくぼ、ペギー葉山みてぇだぁ』ってって、
口説かれたんです。

まぁ、そんなこんなで、
東京に出て来たりすることになったもんだから、
芸名ってんですかね、
ペギー小淵沢ってのは、どうかってことになったわけですて。

まぁ、わたすのことは、どうでもいいんです。
今日は、演歌歌詞(ス)解読講座ということです。

えぇ、さて、
演歌の歌詞(ス)と、一口に申すますても、
これは、これは、色々と、複雑に分類することも
できるのですが、
今日は、そのお話すをすているヒマはありません。

早速ですが、
今日のテーマ曲について、
解説を始(ズ)めたいと思います。

今日のテーマ曲は、『雨の慕情(ズュウ)』
この曲は、昭和55(ゴズーゴ)年、 阿久 悠 作詞(ス)
浜 圭介 作曲 で、
歌うは、演歌界のグランドホステス、八代(スロ)亜紀。
という、名曲中の名曲でございます。
















ご存ずのように、
八代亜紀さんは、熊本生まれ。
わたすとは、何の縁もゆかりもないのだけれど、
なぁんか、心が通ずるというのか、
親(スン)近感が湧くのは、何でだろうと、常々思って
いたところ、
ある時、婦人(ズン)会のカラオケ大会で、
この歌を歌ったとき、
林(ス)さんの奥さんが、
『あんら、竹下(スタ)さんの奥さん、
八代亜紀に、横顔がそっくりだわ』と、言われて
わたすも、納得、納得。
潜在意識(スキ)というのかなぁ、どこかで
あの人に、似ている自分を感ずていたことは、
確(ス)かだわね。

ささ、時(ズ)間に限りもあることですから、
早速、テーマ曲の、解説を始めたいと思います。
まずは、歌詞をずっくり読み味(アズ)わってみてください。
ミューズック、スタート!




・・・後半に続く・・・

木曜日, 6月 15, 2006

残業しない、夕方は・・・

6月は、梅雨というようなこともあり、
また、ボーナスやセール時期の直前であるところから、
比較的、わたし、Giovanniの職場はヒマである。
こういう時は、残業なんかしないで、
ちゃっちゃ、と、仕事を切り上げるよう努力している。

数日前、そんなで、ちゃちゃちゃっ、と、
上がってしまい、帰ろうとしたところ、
やはり帰宅の身支度をしていたY君がいた。

何気なく、今からどっちへ帰るの?などと、
尋ねたところ、
N通りのCという雑貨屋を覗きに行く、と言うので、
一緒に行くことにした。

N通りというのは、この町でも、
最近少しずつ、開拓が始まっているエリアのメイン通りで、
新しい飲食店や、雑貨を扱う店などが軒を連ねているのだが、
行く度に、前には無かった店などが出来ていて、楽しい。

Cは、わたし、Giovanniも注目している店。














主としてフランスの雑貨ーー文房具や、台所の細々したもの、
皮の財布や、布製の鞄、などーーの取り扱いがある。
世の中には、ここにもかしこにも、雑貨を取り扱う店が
増殖していて、
扱う品物も似たりよったりなことが多いのだが、
ここは、他であまり見かけない珍しい物が多い。
フランスでは当たり前に使われている、
日々の、ちょっとした雑貨や、リネン物(布巾やら、袋物やら)が
充実している。

Y君は、ちょこちょこっと何か買い物をしていたようだ。
わたし、Giovanniは、目の保養のみ。
財布の紐は、かなり固いのである。

Cからさらに先へ向かった。
このN通りも、随分と伸びてきて、
せいぜい、Cがあった辺りまでが、商店街の終わりだったのに、
ここから先にも、最近ではまだ数軒の店ができている。

そんな店の中に、何と、”Giovanni"という店を発見!
(Y君の推奨店)

ここは、主に、イタリアの文房具を取り扱う、渋い店で、
ヴェネッツィアの大理石模様紙を使った箱物や、
ペン先とインク壷とか、封蝋とか、
ドアを開けた瞬間に、”Buongiorno!"と、挨拶されそうなくらい、イタリアらしい店。
文房具独特の香りに、クラクラしたGiovanniであった。

ちょっとしたヨーロッパ周遊のように、Y君と町を歩いて、
せっかくだから、ちょっとお茶でもしようか、と、
某シアトル系coffee shopの、
2階のテラス席に落ち着き、しばし、歓談。

決して、強烈な自己主張をするようなタイプではないのだが、
このY君、内側に秘めてる力強いものがあるなぁ。

彼の、物に対するストイックな眼力。
好きな物と嫌いな物が明確なのに、嫌いな物でも、
取りあえずは、観察してやれ!という包容力?とでも言うのか。
人の見ていないところで、とても努力している青年だなぁと、
わたし、Giovanniお兄さんとしては、見ているのだが?

『リーダシップを取れないのが自分の欠点』と、
言っていたけれど、
まぁ、そこんところは、これからボチボチと、
勉強して行きなさい!と、アドヴァイスしてみた。
Y君、これからもヨロシク!

残業しないで、ゆっくり帰る夕方は、
楽しくて、嬉しい。

水曜日, 6月 14, 2006

Bossa Novaな気分


Bossa Novaとはポルトガル語で、
『新しい感覚』とか、『新しい傾向』
というような意味があるそうだ。

ブラジル音楽の一つのジャンル(様式)である、
と、定義するのが一般的なボサノヴァの解釈のようだが、
感覚、とか、傾向、という言葉が用いられていることが
物語るように、様式や形式にあまり拘らない、
新しい(自由な、と訳せないだろうか?)雰囲気を持つ
音楽、というようなことでどうだろう?

それがボサノヴァだ、と知らないままに、
何とはなく心地の良い音楽が耳に届いたり、
体を、緩慢でありながらしっかりと包んで離さない、
音楽が流れていたり。
後になって、ボサノヴァだったのか、と気づく。

日本の様々なシーンにも、
微塵の居心地の悪さも感じさせないで、
その軽妙な、宙を舞うように刻まれるリズムと、
はるか昔、どこかで聞き馴染んだかのようなメロディーが
すっくりとはまる。

毎度お馴染みの、
代官山の、和食器の店、"room+J 代官山"の、
和の品々が居並ぶ中、
今日は、生のボサノヴァのメロディーが流れた。

梅雨の合間の、少し空が明るくなった午後を、
いくつもの馴染みの曲が、エンドレスに流れ、
店主のHAALちゃんともども、しばし、
ブラジルのどこかの町の昼下がりへと、トリップ。

今までどこにいたの?
この音楽を、どこに隠していたんだ!
土の中のタネが、
突如大きな花を咲かせたかのように、
或は、長い間、着陸するタイミングを待っていた
海を渡る鳥が舞い降りたかのように、
現れた才能あふれるミュージシャン。

その、荒木俊彦の演奏によるボサノヴァライブを、
7月と、8月に、"room+J 代官山"で開催。
詳細は、"room+J 代官山"のサイトで、
近日中に告知される予定。

ボサノヴァは、
日々新しく始まる、わたしたちの人生を、
祝う、門出の音楽でもある。

月曜日, 6月 12, 2006

西表島行き














7、8年振りに、8連休もとった。
今月末の話。
西表島へ行くのだ。
ま、実際は、4泊5日かな。
前後にのんびりするから、8連休。

西表島には、従兄弟が住んでいる。
一体、あの人、何年住んでいるんだろう?
もう、20年以上会ってないんだけど。

同行するのは、従兄弟の母親、つまり、
わたし、Giovanniには、叔母に当たる人。
そして、わたしの母。
母にとって叔母は、義姉になる。

従兄弟は最近、ようやく(!)結婚し、
子どもも生まれたので、
叔母が孫に会いに行くのに、
我らも同行することになった。

世界、色々と旅したGiovanniだが、
意外と、日本での最南端記録は、どこかな?
熊本あたり?

西表との出会いは、
何かを変えるだろうか?
きっと、自分の遺伝子にはラテン気質が
含まれてると信じてるから、
日本のラテン圏との出会いには、
何か触発されるものがあるのでは?と、
密かに思っている。

日曜日, 6月 11, 2006

カレンダー









わが家のカレンダーは、
数年前から、これ、と決まっている。
ニューヨーク在住の友人が毎年、年末になると
わざわざ郵便で送ってくれるもので、
アメリカのあるコミュニティーのモノクロの写真が
月替わりに印刷されているもの。

コミュニティーの住人たちとは、
一度も会った事はないのだが、
毎年送られてくるそのカレンダーの写真を眺めつつ、
ああ、この人、歳をとったなぁ、などと、
一人、感慨に耽ったりもする。

わが家の壁には、もうこのカレンダー以外、
かかっているの想像することができない。

そんな、愛着のあるカレンダー。
送ってくれる友人には、申し開きもできないが、
実は、ほとんど役にはたっていない。

普通、カレンダーは、
月末最期の日の夜や、月が代わった最初の日に、
次のページに送るものだが、
わが家でカレンダーのページを送るのは、
年にせいぜい、2、3度である。

つまり、今日現在、わが家のカレンダーは、
まだ、2月のままである。

元々、日時の感覚に優れているのか、
あるいは、時間という制約に対しての反発からか、
時計、日記、スケジュール帳というような、
時間を管理するツールに対する興味や関心がとても薄い。

かと言って、
昔からそうであったとは思えない。
自分を、時間の管理下に置いて、かっちりと生きていた頃も
あったはずだ。

こういう今のような自分に、見事な変貌をとげたのは、
恐らく、アジアの幾つかの国々での生活の経験によると
思われる。

ある時、バンコクのイエズス会の家で、
何日か厄介になったことがあった。
夕飯は、◯時、と言われていたので、
その時間に間に合うように、と、出先から帰宅しようとして、
バンコク名物の大渋滞に巻き込まれてしまった。
バスに乗ったが、遅々として進まない。
1分に1mmくらいの感じ。
そうこうしている間に、夕飯の時刻はどんどん迫ってきた。

ようやく、最寄りのバスターミナルに到着した時は、
すでに、決められた時刻を少し過ぎてしまっていた。
そこから、猛ダッシュで家へ戻り、
汗だくになったまま、ダイニングルームに入ると、
神父たちは、みな、既に、食事を始めていた。

額に大汗をかいた、わたし、Giovanniを見て
フィリピン人の神父が、
『そんなに汗をかいてどうしたんだ?』と聞いたので、
夕飯の時刻に遅刻したから、バス停から死ぬ気で走って来たと、
説明したところ、
『ははは、走ることはないさ。遅れたら遅れた。
それでいいじゃないか! ははは!』と、言われた。

そう言われれば、インドでも、マレーシアでも、
時間に対する感覚が、非常に緩やかだった。
そんなにキリキリするこたぁない、という常識が
十分に通じるようだ。

そういう感覚に一度身を解き放ったら、
それが楽、ということに気がついた。
もちろん、この日本の一般的な社会生活で、
あちらの常識が通じない場面は多いのだが、
自分の生活の中では、
あの時の常識を通用させることもある。

その象徴が、めくらないカレンダーか。

しかし、カレンダーをめくらなくなったのには、
別の、ちょぴり悲しい思い出もある。

次回は、その話。

月曜日, 6月 05, 2006

ウラハラ

わたし、Giovanni、原宿が好き。

そんな原宿好きな、わたしに、ある日衝撃が走った。
わたしが原宿を好きな最大の根拠であった、
ある場所が、無くなってしまったのだ。
(この話は、別途また詳しく書くが)

その日以来、わたしは、そこの前を通るたび、
そちら側を見ないよう、そっぽを向いたり、
目をつぶったりして、足早に通り過ごす。

または、一筋、裏側の道を歩く。
いわゆる、ウラハラを。

職業がら、個人情報について敏感な、Giovanni。
先日、夕飯後、くつろぎながらテレヴィを観ていて、
『おいおい、これ、いいのかよ!』と、
画面に向かって叫んでしまったことがある。

町往く人に、街頭インタヴューをするコーナーで、
しょっぱなから、小さなこどもに
(もちろん、母親がついていたが)
名前と年齢を尋ねていた。

『△山◯子です。4さいです。』と、
はきはき言う彼女に、
かわいいだの、おりこうだの、と、インタヴュアーが
話しかけているところを、オンエアー。

思いっきり、個人情報だ。
しかも、面が割れた。

昨今の、こどもが次々と狙われる、事件。
こういう事件を引き起こす輩たちが、
この番組を観ていたら、
彼女に近寄って、
『◯子ちゃん、4さいになったの?
大きくなったね。
おじちゃん、◯子ちゃんが1さいのときに
会った事あるんだよ』
てな具合に、言葉巧みに声をかけ、
どこかへ連れ去ったりは、しないだろうか?

個人情報が漏れる事のないように、と、
最近では、学校や幼稚園の連絡網が廃止されたり、
学校の先生による家庭訪問なども、
嫌がられる時代になってきている。

それとは、ウラハラに、
自分のこどもたちを、有名にしたい。
歌手に、モデルに、子役タレントにしたい。
世間に、自分のこどもたちのプライバシーを、
さらして、一儲けしたい、という親たちも、
少なくはないという。

こんな心配していると、
もうどうにも止まらない!









ウラハラ、ウラハラ、ウラウラで、
ウラハラ、ウラハラ、ウラウラよん!
Giovanni、困っちゃう!

(ありがとう、そして、さようなら+老後の楽しみに+マルタ)÷3

これから書く事、信じないというのなら、ご自由に。
でも、これ、本当の話。

数日前、"Tru Calling"という、
予知夢を見る女の子が主人公のドラマのことを、
ここで書いた。
その時、最近、懐かしい人にばったり会ったり
することが、多い、とも書いた。

そして、その翌日、
フランス時代の友人たちと、老後の楽しみに備えて、
やりとりを再開しよう、と書いて、
ノールウェイ人の友人のことを書いた。
そして、その友人とのやりとりが、
再び、開始された偶然として、
ニューヨークのTという友人のことを書いた。

で、今朝、ふと思いたって、
マルタのことを書いたのである。

仕事を終えて、帰宅し、
Macの電源を入れて、メールのチェックをした。

そうしたら、何とこんなメールが来ていたのだ。

『親愛なる友人たちへ

 今、まさに、みなさんとこの喜びを分かち合うときです。
 わたしたちは、7月にマルタで、そして10月にニューヨークで、
 わたしたちの結婚式をあげることになりました。
 そしてぜひ、みなさんに、どちらか一方の、または両方の式に、
 お越し下されば、こんなに喜ばしいことはありません。』

 添付した写真は、去年の9月21日ブルックリン市役所で、
 入籍したときのものです。

 式に参列していただくために、遠方からお越しいただくのであれば、
 どうぞ、お早めにおっしゃってください。
 旅程と、宿泊について、出来る限りのお手伝いをさせていただきます。

 わたしたちの、マルタでの結婚式は、7月28日午後7時半より
 マニカタ教会で執り行いわれます。
 軽食をご用意しております。
 この、近代的な美しい教会は、リチャード・イングランドの
 設計によるもので、
 第二次ヴァチカン公会議による、カトリック教会刷新の
 一環として建てられました。

 ニューヨークの結婚式は、わたしたちの教区教会で、
 ナイジェル・マセイ牧師の司式によるものとなります。
 軽食と、生バンドの音楽をご用意しております。

 みなさんからのお返事をお待ちしています。
 お会いできるのを、楽しみにしています。

 クリスティーン&ティム』

つまり、Jのことを書くにあたって、
本題ではない登場人物であったT(Tim)のことを
何気なく書いたところ、3日後に、
そのT自身から、数ヶ月振りにメールが届き、
結婚の相手が、マルタ出身の女性だ、ということ。

これは、単なる偶然なのか?
偶然は、必然ということならば、そういうことなのか?

人生は、大きなパズルで、
日々の生活は、小さなパズルの1ピース。
人は、死ぬまで、
パズルのピースを一つ、また一つ、と、はめながら、
最期に、そのパズルに描かれたのが、
何であるかを知る。

そんなことを言われたことがある。





わたし、Giovanniのパズルには、
どんな絵が描かれているのだろう?

日曜日, 6月 04, 2006

マルタ


ワールドカップも、サッカーも、
全く、興味無い、わたし、Giovanni。
団体競技が、苦手なもので。ご存知の通り。

ここのところ、色々なところで目にする、
ワールドカップの話題の中で、『マルタ戦』とあるが、
これは、マルタ共和国チームと戦うということ?

マルタ、マルタ共和国、実は、行った事ある。
当時のアメリカ、ブッシュ大統領と
ソ連、ゴルバチョフ書記長の、
米ソ首脳会談よりも前の話なので、
一体いつのことだろう?

シチリアの南端から、船で渡った。
同行の友人の知り合いが、その船の乗組員で、
乗客とは別に、乗組員たちの食堂で、
夕飯をごちそうになった。
しっかりとアルデンテなのに、クリーミーな
小さな蛸の入ったしょっぱめのリゾットと、
豪快に、カラリと仕上がった、小アジの唐揚げ。
うー、旨かった、最高だった。忘れられない。

バレッタという名前の首都を中心とした、
マルタの印象は、
城塞の町。
白茶けた石で、何もかもが作られていた。
歩く限り、こつんこつんと、足音が響くような、
石畳が、永遠に続く町。

ところどころに生えている、
大きなサボテンが、
『ここは南である』ということを
時折、思い出させてくれた。
大好きな映画、”Nuovo Cinema Paradiso"の
いくつかのシーンに、共通する風景。

限りなくイタリアに近いのに、
公用語は、マルタ語と並んで英語。
イギリス連邦に加入していた時代の名残のようだ。
そう言えば、
友人のAlisonも、流暢な英語を話す女性だった。

市内の交通は、バス。
日本でなら、とっくにお役御免となっているような、
ボンネットバス、とでも言うのか、
懐かしい風体をした、小さなバスが、
町中(国中)を、縦横無尽に走って、
市民(国民)の生活を支えていた。








これと言って、何かとても目立った出来事もなく、
印象に残る、モニュメントを見たわけでもない。
平凡と言えば、平凡。
退屈と言えば、退屈な町(国)だったのに、
まるで、古い色あせた映画を、
ずうっと見続けているかのように、
おんぼろバスで辿った道のりを、
次々と思い出す。

金曜日, 6月 02, 2006

老後の楽しみに

年齢は、加速度をつけながら、増えて行くものだと、
聞いてはいたが、
まさに、その通りなので驚いてしまう。

一昨年の一年間と、去年のそれは、明らかに違うし、
半分を過ぎた今年は、すでに、随分な速度を感じている。

父親の転勤のせいもあったし、
また、大学を卒業した後、すぐに日本に
いなくなってしまったこともあり、
小学校から大学を通して、
学生時代の友人との付き合いは、限りなく0に近い。

その反面、
フランス時代の友人たちとは、
ある意味、寝食を共にした、
仲間ーーcompanionsーーなので、
特に印象深かったり、固い絆で結ばれている、
そういう感覚が強い。

だが、だからと言って、この何年もの間、
密度の濃い、コンスタントなおつきあいをしている
相手は、ほんの一握りである。

ノールウェイ人のJは、
わたし、Giovanniが最初にフランスでの生活を
始めた時からの友人で、
後に、”we are blod brothers!"
(俺たちゃ『血兄弟』さ!)と、言い合った親友となった。

Jとは、その後、インドでも、
学生寮の隣同士の部屋を借りて、
一緒に働いたり、長距離列車の旅をしたり、
そんな間柄だった。

ある時などは、まだ、飲酒が世間から、
白い目で見られがちだったインド南部の町で、
わざわざ、自分たちの住む地域から、
うんと離れた所にあった酒屋で、瓶ビールを買い、
新聞紙にくるんだまま飲み干して、
また、遠い所へ瓶を捨てに行く、というような
悪さも一緒した、兄弟だった。












インドのどこかの町の列車の駅で、
Jは、そのまま北へ向かい、
わたしは下車をして、そこで、お別れ、という、
ドラマチックな最後で、
二人一緒のインド生活は、終わりになった。
大勢の旅行者が、乗り換えや、何やらで、
ごった返していた、駅のホームでの雑踏の中で、
最後のhugを交わした。
動き出した列車から、いつまでもこちらを見ながら
手を振るJ・・・
最愛の兄との別れに、涙が無かったと言えば、
大嘘つきになる。

そんなJと、交流が復活したのは、
偶然と言えば、偶然。
しかし、偶然は、必然と言うのなら、
そういうことだったのだろう。

旧知の日本人の友人から、
久しぶりに便りをもらったことがあった。
親類かどなたかの、結婚式でニューヨークへ
行っていたとのことだった。

そのニューヨークで、
わたし、Giovanniを知っているというアメリカ人に
会ったという報せで、
彼自身の手紙と一緒に、
そのTというアメリカ人からの短いメッセージが
同封されていた。

十年以上も、会った事はもちろん、
手紙すらもらった事もなかったTと、そこから、
メールでのやりとりが始まり、
ネット上とは言え、再会できたことを喜び合った。

Tは、やはりJとの付き合いがあり、
わたし、Giovanniは、
兄であるJの消息を、久しぶりにTから聞くこととなり、
そこから、Jとのメールのやりとりが、
めでたく、始まったのである。

実は、
長い間、消息知らずだった友人たちと、
少しずつ、再会を果たそうとしている。

世界に散らばっている友人たちなので、
実際に会っての再会は、容易くはないのだが、
メールのやりとりなどであれば、
いとも簡単である。

このまま行くと、
老後はそう、遠く無い将来のようにも思えるのである。
その為にも、
老後の楽しみを一緒に味わえる友人たちを、
一人でも多く、丸いテーブルに招待しておこう。

木曜日, 6月 01, 2006

ありがとう、そして、さようなら?


ちょっとミーハーだが、
ケーブルテレヴィで放映している、
“Tru Calling"というアメリカの連続ドラマについて。

数ヶ月前から、新シリーズとして始まったようなのだが、
あまり興味がなくて、観てはいなかったのを、
先日、偶然に観てしまった。

1回しか観ていないので、
全貌は明らかではないが、恐らく、
全体の流れとしては、こんな感じ。

主人公の大学生、トゥルーは、予知夢を見る女の子。
色々な事件に巻き込まれ、そこで、殺人現場に遭遇する。
殺人された、遺体が、突然起き上がって、
トゥルーに向かって
『わたしを助けて!』と、叫ぶところで、
フラッシュバックになり、目を覚まし、
今の事件が夢であったことが分かる。
で、その夢で起きたことが、現実にならないように、
その現場へ行って、事件を防いでいく。

というような、展開。
まあ、ドラマならではな、お話である。

予知夢、ではないが、
ある人のことを不意に思い出したりすると、
その直後に、
その人が現れたり、その人から電話がかかったりする、
というような経験を時々する。

単なる偶然かも知れないし、
偶然は、全て、必然と考えれば、必然かも?

この数日ーー数日とは言っても3日間くらいーーの間に、
何年も会っていない友人や、元同僚に、
ばったり出会ったりすることが、続いている。

何だろうなぁ、これ。
死が近くなると、長年会う事のできなかった人に、
お別れを言うために、引き合わされる、
などと、言ったりしなかっただろうか?

そういうことなのだろうか?

だったとしたら、言っておこう。
ありがとう、そして、さようなら!

でも、わたし、Giovanniの身の上に、
事件が起きたとしても、
きっと、トゥルーが助けに来てくれるはず。