土曜日, 6月 09, 2007

カレンダー


帰宅してポストを開けたら、
ケータリングや、マンションのちらしに埋もれるように、
A4サイズくらいのボール紙でできた封筒が隠れていた。
見覚えのある封筒。
心待ちにしつつも、半ば諦めてもいた、あの封筒だった。

不要なちらしを、そのまま直接ゴミ箱に葬って、
その封筒を大切に小脇に抱え、玄関ドアを開けた。
靴も鞄も、放り出したまま、封筒を開封すると、
ほら、いつもの・・・

今年で何年目になるだろうか?
ニューヨーク在住の友人、K子さんが、
航空郵便でこのカレンダーを届け
てくれるのは?
5年目?いや、もっとかな?

例年、年が改まる前の、前年の年末に届くカレンダーが、
今年は、いつまでも届かず、
K子さん、忙しいみたいだし、忘れられているのかな?と、
もう、大概、諦めていたのであるが、
今こうして手元に届いてみると、やはり、あるべきものが
ここにある、という実感がして、
例え、今年はもう半年が過ぎようとしていても、嬉しい。

いつも、このカレンダーがあるべき場所に、
ぽかんと空いてしまっていた空間に、
カレンダーを収めると、しっくりと落ち着いてくる。

このカレンダーは、アメリカのミシガン州にある、
Saint Gregory's Abbeyという修道院が作製しているもので、
縦の見開きの上部が、修道院の四季折々のスナップ写真、
下部がカレンダーとなっていて、
写真が全てモノクロなのに合わせて全体的にモノトーンに
仕上げてある。

写真は、プロが撮影したキメキメの立派な写真、
というようなのではなくて、
修道院の日常の生活、例えば、修道士たちが掃除をしている様子や、
修道院を訪れている人たちが楽しげに話している姿、など、
どれも、本当に日々の生活風景の一部を、
そのまま切り取ったような、さりげない写真ばかり。
5、6年も、このカレンダーを使っていると、
最初の頃は、まだ若々しい表情をしていた修道士が、
随分、それらしい、渋味のある風貌になってきたなぁ、なんて、
旧い友人にでも会うような気持ちにもなったりする。

このカレンダーには、修道院製のものらしく、
キリスト教で言うところの、『教会暦』が記載されていて、
12月25日がクリスマスというのは周知だが、
移動祝祭日などと言われる、復活祭などが、
今年は何月何日になるのかを知ることができる。
その他、日々の聖人の祝日なども分かるようになっている。

カレンダーを眺めながら、
忘れていた、大切な祝日や、友人の守護聖人の祭日を思い出したり、
クリスマスや、復活祭までの日々を指折り数えたり、
そういうことが、日常の生活の一部になっている
わたし、Giovanniとしては、
このモノクロのカレンダーは、不可欠なものだっただけに、
半ば諦めかけていた今年のカレンダーを、
文字通り、一年の半ばにようやく受け取ることができて、
喜んでいる。

K子さん、ありがとう。
そして、Saint Gregory's Abbeyに神のご加護を!

月曜日, 6月 04, 2007

小鳥のいない生活

長年使っている、ラバーウッドの四角い盆に、
バタを塗って、果物のコンフィチュールを添えたトーストと、濃いめのコーヒーを乗せ、
起きたままの寝床でとる、わが家の朝食。
トーストは、フカフカよりは、カリッと香ばしく焼いたのが好きだが、
そういうよく焼いたトーストは、食べるとパン屑がたくさん落ちる。
パン屑のその大方は、四角い盆で受けるのだが、
サクッとした歯ごたえと、口に広がるバタの塩味とキウィやモモのジャムの甘みが、
口いっぱいに広がると同時に、
羽毛の掛け布団の上は、パン屑が広がって、大変なことになる。

フランスの共同体で生活していたとき、
"Le Puits"という名前(井戸、の意味)の家の管理人を一年位していたことがあった。
そこは、毎週、30人程度のヴィジターが滞在して、
沈黙の生活の中で、修道士のガイダンスの元、
各自が自らの内面的な探求を進めていくための施設である。

その家での昼食と夕食には、何人かの修道士が、当番制で食卓に共につき、
静かな音楽を聞きながら、沈黙の中で食事を摂る。
食事は、修道共同体らしく、とても簡素なものであるが、
フランスだけあって、パンがとても美味しい。

毎食、共同体全体の食事を準備する”Big kitchen"から、
わたし、Giovanniが管理をしていた家用に、
スープの入った大きなポットや、
食後のフルーツとして供される木箱に入った青い林檎と一緒に、
フランスで、所謂、バゲットと呼ばれるような、
棒状のパンが数本あてがわれる。
そのパンを、これもフランスでは当たり前にどこの家庭にでもある、
少しギザギザの付いた専用のパン切りナイフで適当な大きさに切り分け、
いくつかのカゴに盛りつけて、
家の大きな楕円形のダイニングテーブルに並べる。

パンのカゴは、
食事中に、幾度となく楕円のテーブルの周りを行き来する。
豆の煮たのと、チキンのオーヴン焼きを食べてしまって、
一先ず落ち着いたところで、
もう一度、今度はチーズと一緒に食べるために、
何片かカゴに残されたパンが、食卓の周りを囲む人から人の手へと、
手渡されて行く。
(そして大概の場合、この最期の一周りでカゴは空っぽになる)

修道士の、食事への感謝の短い祈りとともに、食事は終わり、
各自が自分の食器やカトラリーを、
食堂の横に設えてある流し場へ運ぶ中、
いつも、その光景に、ふと、感じ入ることがあった。

テーブルの上に、よく見れば、たくさんのパン屑が散らかっていて、
その屑を、ティータオルで拭い去ってしまう人もいたのだが、
修道士の一人、フレール・ヨハネスは、
そのパン屑を、空っぽになったパンカゴに集め、
ダイニングルームから、直接庭に出ることのできる、
素通しのガラスの扉をくぐって庭に出て、
カゴに残ったパン屑もろとも、庭にまくのだった。

フレール・ヨハネスは、スウェーデン人の修道士で、
寡黙で、いつも飄々としており、
茶色い毛糸のベストを着用したその素朴な風貌が、どことなく、
洗礼者ヨハネを描いた絵のようだった。

その彼が、庭でパン屑をまく姿は、
また、12世紀のイタリアで、清貧の精神を唱え
フランシスコ会を創立した、聖人、
フランチェスコにも重なって見えた。

聖フランチェスコは、太陽を『兄弟』、月を『姉妹』と、呼び、
『西洋人には珍しいほど、自然と一体化した聖人として、
国や教派を超えて世界中の人から愛されている。
小鳥へ向かって説教したという伝説も大変に有名であり、
教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「自然環境の保護の聖人」とした。』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
と、あるように、小鳥たちをも、普遍の愛情の対象として、
愛おしんだ人であった。

今年の正月に、両親の住む家を訪ねた。
庭の見える部屋から外を眺めていたら、
雀たちが庭の隅に集まって、何かをついばんでいた。
父に聞いたところ、小鳥用の餌を、ときどきまいてやっているというのだ。
冬の冷たい空気に凍えないように、
その羽毛をめいいっぱいふくらませた雀らの姿に、
父も、母も、そしてわたし、Giovanniも、
目を細め、いつまでも飽きることがなかった。
そして、いよいよ仕事を引退して、3月に両親が終の住処として戻った、
神戸のマンションの6階のベランダにも、
時おり、小さい鳥たちが、やってくる姿を見かけるようだ。

わたし、Giovanniの生活には、
残念ながら、こんな小鳥たちは、ほとんど現れない。
せいぜい、早い朝に窓を開ければ、
どこかで何やら楽しげな、チュンチュンという彼らのおしゃべりが、
聞こえるくらいである。
羽毛布団に散らかったパン屑も、四角い盆の上のパン屑も、
それをついばみにやって来る小鳥もいないので、
屑かご行きになるばかりである。











そんな、
小鳥のいない生活は、何か、少し寂しくもある。