金曜日, 8月 17, 2007

あなたがそこにいるということ






















少しずつ、年齢を重ねてくると、
誰かに話したり、伝えたりしたいと思うこと、
ーーこと、と言うよりは、言葉ーーが、
同じこと(言葉)の繰り返しになってくるということに、
ここ最近、気がつき始めている。

あ、また同じ話をしている、とか、
また、同じ言葉を書いている、とか。

それだけ、自分が何を相手に伝えたいのかということが、
はっきりと、明確にされてくることが、
大人になることの一つなのだろうか。

今から書くエピソードも、
もう、15年近く、
繰り返し繰り返し、人に語り伝えてきたものなので、
これを読むあなたも、既に、わたし、Giovanniの口から、
聞いたことがあるかも知れない。

1992年、日本で一年やった仕事を辞めて、
請われるままに、アジアの幾つかの国々を訪問する旅に出た。
インド南部、ケララ州の約30の町や村を、
列車やバスで訪れていた一連の旅程の途中のことだった。
いつものように、時刻表通りに来たことのない汽車に乗り込み、
どこかの町から、どこか別の町へ、移動していた。

窓の外は、南インドらしく、青々とした、瑞々しい風景。
ライスパディと呼ばれる稲田と、
そびえ立つココナツの木々を、眺めながら、
心地よい風を頬に受け、ぼんやりとしていたそのとき、
一人の少年の姿が、目に飛び込んできた。
10歳か、11歳というところだろうか?
インドによく見られる、線路沿いのいくつかの小さな家々。
その中のある家の前に立つその少年は、
背筋を伸ばし、満面の笑顔で、
通り過ぎようとしている列車に向かって、
最敬礼の格好をしていた。

日本でも、幼いこどもが、線路沿いで、
電車に向かって手を振る光景は珍しいものではない。
しかし、その少年の、列車と、
恐らくわたしを含めた列車に乗る乗客とに対するその笑顔は、
今までに見たこともないくらいに、
キラキラと輝いているように見えた。

その少年の姿が、この視界に入っていたのは、
恐らく、ほんの数秒のことで、
彼のことを知る手がかりになるような情報とて、ほとんどないが、
わたしは、こんな想像を巡らしたのだった。

インドの列車は、その当時(今現在どうなっているか知らないが)
まだ、汚水を垂れ流しながら走っていた。
先に述べたように、
その少年が立っていた家がある線路沿いというのは、
貧しい生活地域に属していることが多く、
そこからも、その少年が、決して裕福な家のこどもではないことが、
容易に察せられた。

物質的には恵まれている、例えば、
多くの日本のこどもたちとは違って、
彼の生活の中には、ゲーム機や色とりどりのおもちゃなど何も無く、
恐らく、自分の家の目の前を走る列車は、
数少ない、彼の娯楽だったのでは無いかと思ったのである。
毎日、何本も通過する列車に向かって、
あの最敬礼と笑顔で挨拶することが、
彼の毎日の楽しみだったのではなかっただろうか?

そんな想像を巡らしているうちに、
とっくに、彼が暮らす貧しい家の立つ地域から、
列車はどんどん離れて行ったのだが、
わたしの目には、その少年の姿が焼き付いていて、
消えることがなかったのである。

あれから15年もの歳月が経って、
あの少年も立派に成人しているはずである。
こんなに時を経ていても、
未だに、あの時の少年の姿を思い出すと、
わたし、Giovanniの心の中に、
何か、小さなともしびが、ポッと灯されたような気持ちになる。
空間と時間を超えて、あの時の彼に、今も、
大きな勇気を与えられているような気持ちになるのである。
名前も知らない、恐らく、生きていて再び逢うことも無いだろう、
あなたがそこにいるということ、
それが、わたしに与えてくれる大きな喜び・・・

『あなたがそこにいるということが嬉しい』
この言葉を、色々なシーンで、色々な人たちから、
聞いてきたような気がする。
それらのシーンや、それらの人たちを、
個々に思い出すことは難しいが、
インドを初めとした、アジアの国々を訪れたときも、
12年前の阪神淡路大震災のときにも、
『あなたがそこにいるということが嬉しい』と言われて、
こちらが励ましたり、手助けしたりするつもりだったのに、
そのひとことで、何か、自分の気持ちが、
救われるように感じたことが幾度もあったのを、覚えている。

昨年の今頃、ここで、
わたし、Giovanniが過ごしたフランスの共同体の創始者が、
2年前、予期せぬ突然の死をとげたことについて書いたことがあった。
8月は、6日の広島、9日の長崎への原爆投下の記念と、
15日の終戦の記念、
そして、生涯を人間の和解と平和のために生きたその人の、
生きた証しを記念する日となった16日、と、
思い起こすべき日が幾つもある月となった。

忘れようにも忘れられることなどできない、この16日の日に、
クリスマスや復活祭などの、折々にいつもそうするよう、
フランスの共同体の修道士たちへ、短いメッセージを送ったところ、
わたしが、長く一緒に旅を共にしてきた修道士、Gから、
すぐに短い返信が返ってきた。
最も短く、そして、わたし、Giovanniの心に響くメッセージだった。

『あなたがそこにいることが嬉しい』

日曜日, 8月 05, 2007

夏の花火、と、冬の花火











いつものように自転車で、職場から帰宅していると、
不意に、鮮やかな緑色の光が、視界の遠くに見えた。

あ!花火だ!
と、気がつきながらも、自転車は、その光を発見した場所をピークに、
下り坂に突入し、
それきり、夜空に光る花火は、見えなくなってしまった。

しかしながら、バーン、バーン、ドドーン!という、
花火を打ち上げる音は、はっきりと聞こえており、
何とか、再び、打ち上がる閃光を見ることができる場所は無いかと、
遠くで聞こえる音を頼りに、行く道の方向を見極めていた。

だが、やはり、平坦な低地を進むばかりのこと、
燦然と輝くその光を見つけることはないまま、
バーン、バーン、ドドーン、という音ばかりに、
耳を傾けつつ、また、思い出したことがあった。

フランスに住んでいた間に、
年末年始をロンドンで過ごしたことがあった。
わたし、Giovanniが、
当時働いていた、communaute(共同体)の仕事で、
クリスマス直後から、ロンドン入りをし、
バタバタと慌ただしい数日を過ごしていたのだった。

日本で言う、所謂、大晦日の夜、
年越しのミサに預かっていたときのことだった。
その日の聖書の言葉に耳を傾けた後、
暫くの時間を、沈黙の内に過ごしていた。

バーン、バーン、ドドーン。

外では、行く年を惜しみつつ、来る年を祝う人たちの、
ざわめきと一緒に、
打ち上げ花火が派手に打ち上げられている音が、
鳴り止まなかった。

その激しい音を聞きながら、
わたし、Giovanniは、自分と共にその場でミサに預かっている、
仲間たちを見回していた。
人民革命と呼ばれた、反マルコス運動の最前線で、
人間の盾にもなったフィリピン人や、
大小様々な、紛争や戦争に巻き込まれた経験を持つ、
旧ユーゴスラヴィアを初めとした、旧東ヨーロッパの面々。
そんな彼らの表情を、
わたし、Giovanniが、伺わずにいられなかったのには、
理由があった。

それは、こういうことだった。
途切れることなく、次々と打ち上げられる花火の音が、
わたしには、戦争の銃撃の音に聞こえてならなかったのだ。
彼らが、この花火の音を耳にして、
自分たちを巻き込んだ、紛争や戦争を思い出しはしないだろうか?と、
気になって仕方がなかったのである。

去年の8月6日に、わたし、Giovanniは、
ここで、わたしの叔父、Sについて書いている。


叔父のSは、広島で被爆しており、
奇跡的に生き延びた後、何年もの間、
花火を怖がった、という話を聞いたことがある。
青白く光る花火が、原爆のピカを、そして、
花火が打ち上げられる音が、原爆のドーンを、
思い出させるからだということだった。

同じように、
自分の実体験として、戦火や銃撃を経験してきた仲間たちにとって、
花火の光や音は、どんな風に受け止められているのだろうか、と、
彼らに尋ねてみたくて、仕方がなかったのである。

だが、その反面、
自己の体験として、戦争の銃撃など知らないわたしには、
花火がそれに近いものだと勝手に解釈せざるを得ないだけで、
本当の銃声を知っている彼らにとっては、
花火など、たかだかおもちゃでしか過ぎないのではないか、という知恵も働き、
結局、そんな質問を投げかけることもしないまま、
その夜の、お祭り騒ぎも終ってしまったのだった。

それでも、未だに、
あの時代のあれらの国々で、そして、今も尚、幾つかの国々で続けられる、
戦争の非情な音は、ひょっとすると、
この花火の音に似ているのではないか、と、思うことがある。
その日の帰り道、
次から次へと、打ち上げられる花火に恋いこがれながら、
ふと、そう思ったのだった。

自宅近くへ到着して、
終に、花火はその全貌を再び現し、
線路沿いの道で、
わたし、Giovanniも、
しばし、その美しい彩りに気をとられていた。