
第2次世界大戦が、どのような形で集結を迎えたかを、
覚えているだろうか?
8月15日に敗戦を認めた日本は、
8月6日の広島、9日の長崎、と、アメリカから
原子爆弾の投下を受けた。
これによって、アメリカは、あの大戦を、強制的に終わらせた。
あれ以上、戦争が続けば、
アメリカは、日本の国土に上陸し、
戦争の犠牲はもっと大きくなっていたはずだから、
原爆の投下は、正しかった、と、主張する人たちもいるようだが、
わたし、Giovanniは、その意見には同意する事はできない。
あの戦争の終結から、何年が経ったのだろうか?
今日、広島地方裁判所で、
原爆投下後に、被爆地域に進入した上で被爆し、
原爆症と見られる症状を発した人を、原爆症とは認めない、
とする国の主張を退け、
41人の原告が、全面勝訴となった。
26万にいる、存命する被爆者の内、
国から原爆症の認定を受けている人は、2260人。
たったの、1%である。
わたし、Giovanniの叔父Sは、当時、鳥取在住であったのが、
何かの試験を受験するため、広島市を訪れていた。
友人と3人で、宿をとり、
その朝、試験会場へと向かうべく、8時10分少し過ぎに、
3人で揃って表へ出た。
Sは、そこで忘れ物に気がつき、宿へと引き返した。
ピカ------------! ドーーーーーーーン!
8時15分、人類史上初の、原子爆弾が生きた人間の住む
都市の上に投下された。
Sを外で待っていた二人は、その存在の微塵のかけらも残さず、
消えて無くなり、
Sは、呆然とそこに取り残されたのだった。
わたし、Giovanniの母から聞いた話ではあるが、
祖母は、Sの骨を拾いに行く、と、
広島へ旅立つ身支度をしている矢先に、
ボロボロになったSは帰宅する。
この叔父Sにとって、
友人二人は、亡くなり、自分だけが生き残ったことに、
大きな罪の意識を覚え、
永年、その苦しみの中、自分の原爆体験を、
一言も語る事は無かったと言う。
その青白い炎が、原爆の光を思い出させるからと、
花火を嫌がる夏を幾つか通り過ぎ、
Sは、ある時、大きな方向転換をすることとなる。
自分が語らなければ、誰があの原爆の恐怖を語るのか?
あの過ちを二度と繰り返すことのないように、と、
わたしが叫ばすして、誰が叫ぶのだというのか?
そこから、
S叔父の、No more Hiroshima! No more Nagasaki!への
熱い思いが、スタートする。
多くの被爆者がそうであるように、
S叔父も、その後、めまいや身体の大きな不調に見舞われ、
原爆症の症状が、彼を苦しめ始め、その苦痛は今も続いている。
昨年、S叔父を数年振りに訪ねる機会があった。
いつものように、たくさんの資料や、文献や、手紙などが
散乱する書斎で、叔父は、ある事を語り始めた。
叔父が、奇跡的に助かった宿に、
当日、やはり滞在していたという男性の家族という人から、
突然便りをもらったという話だ。
その男性というのは、
永年、自分が被爆者であることを、
家族にさえ伝えることなく生きてきたという人だったが、
晩年、家族の知る所となった。
この人自身も老齢となり、
ご家族が、幾つかの保障の便宜を享受することを望み、
今となって、被爆者の認定を受ける事を希望されているという。
そこで、その男性が、あの日、確かに広島のなにがしという場所に
いたという証言をする事のできる人物を捜していたところ、
S叔父に行き当たったということらしい。
叔父としても、証言をする事は構わないと言え、
何しろ、数十年も昔、言葉すら交わした事もない、
ただ、偶然、同じ宿に宿泊していただけの、その人を、
いかに証言することができるのか・・・
叔父は悩みに悩んでいた。
あれから、これだけの歳月が流れても、
未だ、あの日受けた大きなダメージに、苦しみ続ける人たち。
彼ら、彼女らが、広島に、長崎に
そして、わたしたちが知らないどこかに、いる。
今日の判決は、長い道のりの、ほんの少しの前進かも知れないが、
No more!と訴え叫び続けることが、
苦しみを和らげることに、つながるのだと信じたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿