9月3日(日)が、最終だから。
それまで、待ってて。
ごめんなさい!
(笑)
日曜日, 8月 20, 2006
小鳥の集まる木

オードリー・ヘップバーンがジェラートを食べた
大階段から、さほど遠くないある道路沿いに、
小鳥の集まる1本の大きな木がある。
いつも、その木に小鳥たちが群れをなしているのかどうか、
そこまでは分からないのだが、
夏の夕方、夕立が降ろうとしているような、
一天俄にかき曇ったような天気の時、
何百、或は何千もの小鳥が、枝がたわわになるほどに止まり、
チュピチュピ、チュンチュンと鳴き続けている。
このローマの町中にある小鳥の集まる木と、
同じような木を、
タイのバンコックの町の真ん中でも見た事がある。
ローマと同様、
夕立の直前の、空気が鈍く震えるような、
濃いチャコール色の絵の具をこぼしたような空の下、
無数の小鳥たちが、枝を揺らす木。
彼らが、いつこれらの木を、その木だ!と決めたのだろうか?
それより、誰が決めたの?小鳥の長老の意見を聞いて?
なんて、考えると、ちょっとしたメルヘン。
最近、近隣の駅の最寄りのショッピングモールで買い物して、
帰ろうとしたら、
ピーヒュルヒュルヒュル、と、強烈な不快音が聞こえてきた。
何だろうと眺めてみると、
二人のおじさんが、
カセットテープレコーダーのハウリング音を利用して、
ある1本の木に止まっている、小鳥の群れを追い払おうとしていた。
メルヘン風に言うと、
おじさんVS小鳥さんたちの戦い。
優しい心の少年が現れて、おじさんを追っ払い、
小鳥さんたちは、いつまでも幸せに、
その木の上で暮らしましたとさ。
てぇなところだろうか?
こういう木の事、ちょっと調べてみようと思い、
検索機能で、
『小鳥/集まる/木』を検索してみたところ、
出て来たのは・・・
集団ねぐら。
メルヘンにしては、どうなんだろう?
このネーミング?
金曜日, 8月 18, 2006
普通の人?



友人のHさん(女子)から、お誘いを受けて、
Hさんの友だち(女子)と、その方の友だち(男子)とで、
飲む事になった。
場所は代々木にある小さな店で、カウンターと、
軒先を借りたテーブル席が3つ。
3つの内の2つを無理矢理くっつけて、
花火大会帰りの混雑した中、4人で腰掛けるスペースを何とかゲットした。
旨い赤ワインと、フランスのビストロ仕立ての皿が幾品か。
美味しい酒と食べ物を、さらに引き立てるのが
尽きぬ事の無い会話であるのは、言うまでもないこと。
わたし、GiovanniとHさん、
HさんとYさん、
YさんとJ君、が、それぞれ知り合いなのだが、
それ以外は、みんな初対面同士という組み合わせだったのだが、
何となく、話が合って、会話も弾みがついていった。
それぞれの自己紹介なんかをしたり、
後は、旅でのエピソードだったり、職場での話だったり。
そんな中、おもむろに、J君が聞いた。
今年30歳になるんだけれど、心構え、必要ですかね?
というような、質問。
この質問にも、随分と花が咲き枝葉が伸びたのだけれど、
何より、こういう質問を聞いて、
あー、普通の人、と、思ってしまったのは不謹慎だろうか?
自分の30歳は、いつだっけ?と、
遠くを思い出したりしてる、わたし、Giovanni。
つゆぞ、そんな問いかけに出くわした事の無い人生を
わたし、Giovanniは送ってきたのだろうか?
ぐるり周りを見回しても、
自分と似たり寄ったりな、遠回り、寄り道をしながら、
ゆっくりゆっくり歩いている輩ばかりである。
いわゆる、一般的な、というのかな?
普通に、生きて来ている人との出会いが、
何故だか妙に新鮮だった。
*もちろん、各人の人生は、それぞれにユニークで、
他人の誰にも真似することのできない、
唯一無二なのである!
わたし、本人としては、
決して特異な、奇抜な人生を送ってきているとは、
全く思わないのだけれど、
随分、変わり者なのだそうだ、他人から言わせると。
でも、J君、誤解なきよう。
あの日は、随分大人しいほうでした、わたし、Giovanni。
木曜日, 8月 10, 2006
打ち上げ花火

8年間皆勤だった、C市の花火大会に、
昨年今年と行く事ができなかった。
今年も、花火を見ずに夏が終わってしまうのか、と、
ちょっと残念な気持ちでいたのだが、
わたし、Giovanniの住む町の、
川を挟んだ向こう側の花火大会が、今日あることを知って、
仕事の後、自転車を飛ばして戻って来た。
職場の子たちが何人か、来ているようだったが、
これ以上先へ進んだら、みんなのいる場所に到着する頃には、
花火が終わってしまうと思い、
自分の家に近い河原に自転車を止めた。
C市の花火大会は、
たいてい数人のいつもの仲間と融通をつけ合って、
誰かが早い時間から場所取りをすることになっていた。
クレーンの所ね、で通じるいつもの場所は、
目の前に花火が打ち上がる絶好の場所で、
その迫力は、満点の特等席で、花火を堪能するのだ。
今日の花火は、そんな大パノラマ的花火とは、趣きを異にし、
遠くで次々と光を放つのを、
途中で買った缶ビールと柿ピー片手に、一人静かに眺めたのだった。
川が途中湾曲していることもあり、
実際は、川の中州で打ち上げを行っているのだが、
そこから見れば、丁度川の対岸で打ち上げているようにも見え、
対岸の火事、ならぬ、対岸の花火、のように、
どこか、現実味や臨場感に欠けているようで、
それでいて、幻想的に、夢の中の映像を見ているような感覚に
陥っていた。(空きっ腹にビールを飲んだからか?)
日本では、花火というと夏を思い出すが、
ヨーロッパなどでは、季節を問わず、何かお祭りやお祝い事があると、
花火を打ち上げることがある。
大晦日から元旦に時が移る時などに、
町のあちこちで、一斉に花火が大音響と共に、上がったりする。
フランス時代のこと。
日本の除夜の鐘のように、年が変わるタイミングに、
教会でミサをあげたりするのだが、
その年は、年末年始を、ローマだったかロンドンだったかで過ごしており、
何人かの仲間たちと、チャペルに集って静かに年を越そうとしていた。
そんな時、
東西南北至る方向から、新しい年を迎える喜びの花火の音が、
鳴り響いた。
パーン、パーン! どーーーーん、どどーーーーーん。
その音は数分間鳴り止む事なく、腹に響くような振動を伴って、
続いたのだった。
チャペルに集っていた仲間の中には、
当時、まだ戦争の傷跡が生々しかった旧ユーゴスラビアの出身者や、
武器を用いて戦う本当の戦争を、自分の体験として知っている者たちがいた。
鳴り続ける花火の音を聞きながら、
彼らはこの音を聞いて、
自分や家族たちの身の上を襲った、あの戦争を思い出したりしないのだろうか?
そんなことを考えていた。
そう思って、周りを見渡しても、
特別、激しい音に怯えている様子を見せる者もおらず、
案外とみな、そういう経験に対して、淡々としているものなのか、と、
勝手に解釈などしてしまっていた。
しかし、今思えば、
本当の銃砲の音など聞いた事の無いわたし、Giovanniの想像が、
拙いだけで、
人を殺す能力を持つ音は、
もっと凄まじいものなのだと知恵を働かす事ができる。
今日も、今も、そしてこの瞬間も、
レバノンでは、砲火と炸裂する銃弾が、生きる人間を襲っている。
そして、世界地図上の多くの国や地域で、
いくつもの戦火が燃え上がっているのは、現実である。
わたしたちの町からすれば、遠くに霞んで見える花火のように、
ぼんやりと、幻のようにしか見えない戦争は、
現に多くの人たちの命を奪っているのだ。
対岸の花火を眺めながら、
そんな事を考えていて、やるせなくなった。
飲み終わったビールの缶を、握り潰したくなった。
自分を慰めようと、思いを巡らしている内に、
確か、花火には、何かそういう意味は無かったかという思いに辿り着き、
帰宅して調べてみたところ、
日本の打ち上げ花火の歴史にこんなことが書いてあった。
『1733年、関西を中心に飢饉に見舞われ、
江戸ではコレラが猛威を振るい打数の死者を出した暗い世相の中、
将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り
両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、
それに合わせて大花火を披露し、
これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われている。』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
とのことで、花火には、慰霊の意味もあるようだ。
やるせなくなった気持ちが、これで少し和らいだ。
平和と和解の記念日
6日、9日の広島と長崎の原爆記念日、
15日の敗戦記念日と、
8月は、忘れてはならない記念の日が続く。
そんな中、
8月16日もまた、わたし、Giovanniにとって、
そして、世界中にいる多くのわたしの友人たちにとって、
決して忘れてはならない、記念の日である。
それは、昨年の8月17日の午後だった。
仕事が休みで、いつものように、泳ぎに行き、
ゆるゆると過ごしていた夏の午後。
携帯が小さく音を鳴らし、メールの受信を報せた。
メールの送信元は、Marie-Christine。
フランスにいる友人からで、
ある人の死を報せるメールだった。
亡くなったのは、
その同じ年の春に、90歳を祝ったばかりの人で、
ここ数年は、近い将来、その人とのお別れのときが来ることを、
心の片隅で、ぼんやりと意識はしていた。
とは言え、彼が昨日亡くなったというそのニュースは、
わたし、Giovanniの胸をぐっと締めつけた。
彼は、わたし、Giovanniが2年間生活をした、
communaute(共同体)を、今から66年前に創設した人物であり、
亡くなった当時も、高齢でありながら、
そのcommunauteの指導的立場として勤めていた。
彼がそのcommunauteを創始するに至った、
きっかけの一つとして、
当時、ナチスの弾圧を受けていたユダヤ人たちを匿ったり、
戦争によって、親を失ったこどもたちを受け入れる、など、
人間としての連帯の心を、具体的に行動として示したいという
彼の情熱があった。
同時に、
同じキリスト教を信じる者でありながら、
敵対する国同士、お互いを傷つけ合い殺し合うという現実に、
心を痛め、
今こそ、キリスト教徒が一つになって、
平和と和解の一つの印となるべきだ、という熱意をも、
彼は持ち合わせていたのである。
彼は、その生涯を、
人間の様々なレベルにおいての、和解すること、について語り、
その和解の実現に向けて働き続けた。
親子や兄弟姉妹、友人たちとの間での和解。
国と国との和解。
思想や宗教によって分裂した民族間での和解。
或は、自分と、自分の中にいる本当の自分との和解。
彼の死のニュースは、
そのまま、彼に最も近しかったcommunauteの人たちへ、
メールを送るべく、
わたし、Giovanniを、インターネットカフェへ導いた。
フランスのニュースサイトに、
彼の死の詳細が掲載されているやも知れないと、
心当たりのページを開いて見て、
わたしは、呆然となった。
『精神的な病いを持ったと見られる女性に刺殺』と、
記事にはそう書かれていた。
しかも、communauteで一日3回、
チャペルで執り行われる祈りの最中に、
大勢の人たちが、その場に居合わせた中、
背後から、刺され、即死だったというのだ。
それは、まさに、誰にも思いもかけない突然の出来事だった。
わたし、Giovanniを含め、彼を知る多くの人たちが、
突然、全ての明かりを吹き消されたかのように、
目の前が暗く閉ざされた気持ちだった。
しかし、予想だにしなかった彼の突然の死は、
同時に、大きな目に見る事のできない財産を、
わたしたちに残してくれたことに、
わたし、Giovanniも、そして多くの仲間たちも、
直ぐに気がつかされたのだった。
戦争を憎み、あらゆる争いや暴力、弾圧を忌み、
全ての場所に平和と和解を、と、願った彼の生き方を、
引き継いで行くことを、固く誓ったわたしたちは、
平和と和解を望み願う気持ち、という宝を、彼から受け取ったのだ。
わたし、Giovanniも、
自分の生きる社会の中で、職場で、
平和と和解のしるしとして生きていきたい。
そう、思って止まない。
***********************
追記
ここに紹介した人物は、
フランスにある共同体、
Communaute de Taizeの創始者であり、
亡くなるまで、その責任者を果たしたFrere Rogerのことである。
彼の働きは、
共同体の創設から永年の間、
誰からも認められるような表立ったものでは
決してなかった。
むしろ、
孤独に打ちひしがれている老齢者ばかりが暮らす寒村を、
共同体の場所として定め、
静かに、黙々と暮らす、共同体生活だった。
ただ、中世以降の多くの修道院などが、
高くそびえる塀を巡らした中で、
外界と遮断された環境を住処としたのとは違い、
むしろ、積極的に、世界の現実と向き合い、
当初から、東ヨーロッパ諸国の弾圧された人たちとの
連帯を築いてきた。
一説によると、ベルリンの壁の崩壊には、
彼の共同体が、大きな役割を果たしたとも言われている。
社会に大きく見開かれた目と、
静かに、自分の内面に語りかけられる言葉に傾ける耳の
両方を合わせ持つ、彼の共同体に、
ヨーロッパ各国から、青年たちが訪れるようになったのは、
1960年代の後半、
世界が大きく変わり始めようとしていた時代だった。
戦後のヨーロッパが、物質的に豊かになりつつある反面、
多くの青年たちが、生きる目的を見失い、
心を寄せる拠り所を見いだせないでいることについて、
Frere Rogerは大いに嘆き、
自分たちの共同体へ、青年たちを迎えることを始めた。
迎えられた青年たちの多くは、
自分たちと同様に、
進むべき道を知らず、途方に暮れる人たちとの出会いの中で、
或は、ヨーロッパのみならず、アジア、アフリカ、南米などの
国々からやってきた、主に南半球の国々が抱える、
経済的貧困、政治的混乱の中で生きる人たちとの出会いの中で、
自分に何ができるのか、
何を分ち合いながら生きて行く事が自分に望まれているのか、
を、見いだすきっかけを、この共同体で発見し、
それぞれの国で、社会で、家庭で、
新しく歩み始めるのである。

写真はありし日のFrere Roger
彼は、幼いこどもたちを常に
見守っていた
15日の敗戦記念日と、
8月は、忘れてはならない記念の日が続く。
そんな中、
8月16日もまた、わたし、Giovanniにとって、
そして、世界中にいる多くのわたしの友人たちにとって、
決して忘れてはならない、記念の日である。
それは、昨年の8月17日の午後だった。
仕事が休みで、いつものように、泳ぎに行き、
ゆるゆると過ごしていた夏の午後。
携帯が小さく音を鳴らし、メールの受信を報せた。
メールの送信元は、Marie-Christine。
フランスにいる友人からで、
ある人の死を報せるメールだった。
亡くなったのは、
その同じ年の春に、90歳を祝ったばかりの人で、
ここ数年は、近い将来、その人とのお別れのときが来ることを、
心の片隅で、ぼんやりと意識はしていた。
とは言え、彼が昨日亡くなったというそのニュースは、
わたし、Giovanniの胸をぐっと締めつけた。
彼は、わたし、Giovanniが2年間生活をした、
communaute(共同体)を、今から66年前に創設した人物であり、
亡くなった当時も、高齢でありながら、
そのcommunauteの指導的立場として勤めていた。
彼がそのcommunauteを創始するに至った、
きっかけの一つとして、
当時、ナチスの弾圧を受けていたユダヤ人たちを匿ったり、
戦争によって、親を失ったこどもたちを受け入れる、など、
人間としての連帯の心を、具体的に行動として示したいという
彼の情熱があった。
同時に、
同じキリスト教を信じる者でありながら、
敵対する国同士、お互いを傷つけ合い殺し合うという現実に、
心を痛め、
今こそ、キリスト教徒が一つになって、
平和と和解の一つの印となるべきだ、という熱意をも、
彼は持ち合わせていたのである。
彼は、その生涯を、
人間の様々なレベルにおいての、和解すること、について語り、
その和解の実現に向けて働き続けた。
親子や兄弟姉妹、友人たちとの間での和解。
国と国との和解。
思想や宗教によって分裂した民族間での和解。
或は、自分と、自分の中にいる本当の自分との和解。
彼の死のニュースは、
そのまま、彼に最も近しかったcommunauteの人たちへ、
メールを送るべく、
わたし、Giovanniを、インターネットカフェへ導いた。
フランスのニュースサイトに、
彼の死の詳細が掲載されているやも知れないと、
心当たりのページを開いて見て、
わたしは、呆然となった。
『精神的な病いを持ったと見られる女性に刺殺』と、
記事にはそう書かれていた。
しかも、communauteで一日3回、
チャペルで執り行われる祈りの最中に、
大勢の人たちが、その場に居合わせた中、
背後から、刺され、即死だったというのだ。
それは、まさに、誰にも思いもかけない突然の出来事だった。
わたし、Giovanniを含め、彼を知る多くの人たちが、
突然、全ての明かりを吹き消されたかのように、
目の前が暗く閉ざされた気持ちだった。
しかし、予想だにしなかった彼の突然の死は、
同時に、大きな目に見る事のできない財産を、
わたしたちに残してくれたことに、
わたし、Giovanniも、そして多くの仲間たちも、
直ぐに気がつかされたのだった。
戦争を憎み、あらゆる争いや暴力、弾圧を忌み、
全ての場所に平和と和解を、と、願った彼の生き方を、
引き継いで行くことを、固く誓ったわたしたちは、
平和と和解を望み願う気持ち、という宝を、彼から受け取ったのだ。
わたし、Giovanniも、
自分の生きる社会の中で、職場で、
平和と和解のしるしとして生きていきたい。
そう、思って止まない。
***********************
追記
ここに紹介した人物は、
フランスにある共同体、
Communaute de Taizeの創始者であり、
亡くなるまで、その責任者を果たしたFrere Rogerのことである。
彼の働きは、
共同体の創設から永年の間、
誰からも認められるような表立ったものでは
決してなかった。
むしろ、
孤独に打ちひしがれている老齢者ばかりが暮らす寒村を、
共同体の場所として定め、
静かに、黙々と暮らす、共同体生活だった。
ただ、中世以降の多くの修道院などが、
高くそびえる塀を巡らした中で、
外界と遮断された環境を住処としたのとは違い、
むしろ、積極的に、世界の現実と向き合い、
当初から、東ヨーロッパ諸国の弾圧された人たちとの
連帯を築いてきた。
一説によると、ベルリンの壁の崩壊には、
彼の共同体が、大きな役割を果たしたとも言われている。
社会に大きく見開かれた目と、
静かに、自分の内面に語りかけられる言葉に傾ける耳の
両方を合わせ持つ、彼の共同体に、
ヨーロッパ各国から、青年たちが訪れるようになったのは、
1960年代の後半、
世界が大きく変わり始めようとしていた時代だった。
戦後のヨーロッパが、物質的に豊かになりつつある反面、
多くの青年たちが、生きる目的を見失い、
心を寄せる拠り所を見いだせないでいることについて、
Frere Rogerは大いに嘆き、
自分たちの共同体へ、青年たちを迎えることを始めた。
迎えられた青年たちの多くは、
自分たちと同様に、
進むべき道を知らず、途方に暮れる人たちとの出会いの中で、
或は、ヨーロッパのみならず、アジア、アフリカ、南米などの
国々からやってきた、主に南半球の国々が抱える、
経済的貧困、政治的混乱の中で生きる人たちとの出会いの中で、
自分に何ができるのか、
何を分ち合いながら生きて行く事が自分に望まれているのか、
を、見いだすきっかけを、この共同体で発見し、
それぞれの国で、社会で、家庭で、
新しく歩み始めるのである。

写真はありし日のFrere Roger
彼は、幼いこどもたちを常に
見守っていた
火曜日, 8月 08, 2006
金曜日, 8月 04, 2006
26万人分の2260人

第2次世界大戦が、どのような形で集結を迎えたかを、
覚えているだろうか?
8月15日に敗戦を認めた日本は、
8月6日の広島、9日の長崎、と、アメリカから
原子爆弾の投下を受けた。
これによって、アメリカは、あの大戦を、強制的に終わらせた。
あれ以上、戦争が続けば、
アメリカは、日本の国土に上陸し、
戦争の犠牲はもっと大きくなっていたはずだから、
原爆の投下は、正しかった、と、主張する人たちもいるようだが、
わたし、Giovanniは、その意見には同意する事はできない。
あの戦争の終結から、何年が経ったのだろうか?
今日、広島地方裁判所で、
原爆投下後に、被爆地域に進入した上で被爆し、
原爆症と見られる症状を発した人を、原爆症とは認めない、
とする国の主張を退け、
41人の原告が、全面勝訴となった。
26万にいる、存命する被爆者の内、
国から原爆症の認定を受けている人は、2260人。
たったの、1%である。
わたし、Giovanniの叔父Sは、当時、鳥取在住であったのが、
何かの試験を受験するため、広島市を訪れていた。
友人と3人で、宿をとり、
その朝、試験会場へと向かうべく、8時10分少し過ぎに、
3人で揃って表へ出た。
Sは、そこで忘れ物に気がつき、宿へと引き返した。
ピカ------------! ドーーーーーーーン!
8時15分、人類史上初の、原子爆弾が生きた人間の住む
都市の上に投下された。
Sを外で待っていた二人は、その存在の微塵のかけらも残さず、
消えて無くなり、
Sは、呆然とそこに取り残されたのだった。
わたし、Giovanniの母から聞いた話ではあるが、
祖母は、Sの骨を拾いに行く、と、
広島へ旅立つ身支度をしている矢先に、
ボロボロになったSは帰宅する。
この叔父Sにとって、
友人二人は、亡くなり、自分だけが生き残ったことに、
大きな罪の意識を覚え、
永年、その苦しみの中、自分の原爆体験を、
一言も語る事は無かったと言う。
その青白い炎が、原爆の光を思い出させるからと、
花火を嫌がる夏を幾つか通り過ぎ、
Sは、ある時、大きな方向転換をすることとなる。
自分が語らなければ、誰があの原爆の恐怖を語るのか?
あの過ちを二度と繰り返すことのないように、と、
わたしが叫ばすして、誰が叫ぶのだというのか?
そこから、
S叔父の、No more Hiroshima! No more Nagasaki!への
熱い思いが、スタートする。
多くの被爆者がそうであるように、
S叔父も、その後、めまいや身体の大きな不調に見舞われ、
原爆症の症状が、彼を苦しめ始め、その苦痛は今も続いている。
昨年、S叔父を数年振りに訪ねる機会があった。
いつものように、たくさんの資料や、文献や、手紙などが
散乱する書斎で、叔父は、ある事を語り始めた。
叔父が、奇跡的に助かった宿に、
当日、やはり滞在していたという男性の家族という人から、
突然便りをもらったという話だ。
その男性というのは、
永年、自分が被爆者であることを、
家族にさえ伝えることなく生きてきたという人だったが、
晩年、家族の知る所となった。
この人自身も老齢となり、
ご家族が、幾つかの保障の便宜を享受することを望み、
今となって、被爆者の認定を受ける事を希望されているという。
そこで、その男性が、あの日、確かに広島のなにがしという場所に
いたという証言をする事のできる人物を捜していたところ、
S叔父に行き当たったということらしい。
叔父としても、証言をする事は構わないと言え、
何しろ、数十年も昔、言葉すら交わした事もない、
ただ、偶然、同じ宿に宿泊していただけの、その人を、
いかに証言することができるのか・・・
叔父は悩みに悩んでいた。
あれから、これだけの歳月が流れても、
未だ、あの日受けた大きなダメージに、苦しみ続ける人たち。
彼ら、彼女らが、広島に、長崎に
そして、わたしたちが知らないどこかに、いる。
今日の判決は、長い道のりの、ほんの少しの前進かも知れないが、
No more!と訴え叫び続けることが、
苦しみを和らげることに、つながるのだと信じたい。
木曜日, 8月 03, 2006
夏のしるし

巷でも、今頃になって、
マクロビオティックがブームみたいになってるけど、
わたし、Giovanniと、マクロビオティックとの出会いは、
もう20年以上前。
現在、日本の、と、同時に、
世界の、マクロビオティック界の先頭に立つのは、
久司道夫氏であるが、
そもそもは、桜澤如一が、この体系を作ったことは、
今となっては、あまり語られることがない。
そして、
その、桜澤をインスパイアしたのは、石塚左玄の哲学。
彼の哲学の中に、身土不二という考え方がある。
身体と土地は、切っても切れない、
深い関わりがある、という哲学である。
食べ物という事で言えば、
自分の住む土地で収穫する食べ物を食べるべし、
ということになる。
人間の身体の健康は、その人の住む土地と、
大きく関係がある。
その土地の水を飲み、
その土地から養分を吸った野菜を食う。
よって、水や野菜に含まれるミネラル分などは、
土地土地によって違うのであるから、
身体も自然と違ってくる。
また、その季節に本来収穫する食べ物を食べよ、
とも言っている。
昨今は、野菜も温室で育てるから、
年中キュウリもナスもあるけれど、
本来は、夏野菜。
水分をたっぷり含み、身体を冷やす効果のある野菜である。
わたし、Giovanniの家では、
ナスは、梅雨明けしないと決して食卓に上らない。
スイカも然り。
本来は、夏にしか食べることのできない野菜、果物だから。
ナスとスイカを見たら、それは、夏のしるし。
水曜日, 8月 02, 2006
部活

中学に入学して、最初に決めなくてはいけなかったのは、
何部に入るかだった。
父がそうだったから、というだけで、
門を叩いたのは、卓球部。
しかし全く、練習に参加した記憶はなく、いつの間にか辞めていた。
転校先の中学では、やはり、
父の影響を受けて、ブラスバンド部。
入部初日、西向きの音楽準備室で、
マウスピースの使い方を教わりながら、
ハチブセ山に沈んで行く、夕日を見ながら、
何となく、うら寂しくなって、次の日に退部。
高校は、自分から望んで、合唱部に。
結構続いたけど、
途中から、音大入学準備部の傾向が強くなり、
関係の無い、わたし、Giovanniとしては、とっとと退部。
要するには、団体行動が苦手なのか、
根っからの一匹狼タイプなのか、
部活は、苦手だった。
そんな、わたし、Giovanni。
この歳(どの歳?)になって、一人部活中である。
はい、一人水泳部。
今日は、プール滞在時間7時間。
4000メートルまでは、数えてたけど、
それから先は、数えてない。
今日、一日でどれくらい泳いだのだろう?
泳ぎ始めた3年前から、
どちらにせよ、一人水泳部だけれど、
ここんところ、力が入っている。
目標を立てたからだ。
2年越しの悲願である、バタフライの習得。
これを、8月中に、達成するのだ!
職場の、水泳経験者たちの前で、
片手を揚げて、やる!と、宣言してしまったので、
これは、やるしかないっしょ!
やります!
絶対に、やる!
乞うご期待!
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