Ciao! Giovanniです。
小学生時代、何年生のときだったかに、
図書係だったことがある。
ひょっとすると、図書委員だったことも
あったようにも思うが、
随分昔のことで、よく覚えていない、
わたし、Giovanni。
本は、好きだ。
もの凄い、読書家、と、いうのではないが、
コンスタントに、本は読んでいる。
以前にも、書いたように思うが、
同じ本を、何度も何度も、
ローテーションで読む。
街へ出れば、
本屋に立ち寄ることも多い。
しかし、最近の書店の本の、
何と、おもしろ味の無いことと言ったら。
芸能人が書いたような、
つまらない恋愛小説とか、
軽く読むタイプの、文学とも呼べない、
話題だけで売るような本が、
うず高く、並んでいる。
そんなわたし、Giovanni、
実は、今、書籍の販売をやっているのだ。
ご縁があって、
目黒にある、”ユトレヒト”という
予約制の本屋さんで、
セレクトしてもらった書籍を、
うちの職場で販売しているのである。
担当のYさんと、立ち話でついつい、
本談義になることがある。
出版社に発注すると、こんな本売れませんよ、
なんて言われることもあるような、
恐らく、年間で何万種類も出版される
書籍の中に埋まった、目立たない本を、
化石の発掘のように掘り出してきて、
幾つかの関連書籍と一緒に書棚に並べると、
そんな本が、キラキラを宝石のように、
本来のその輝きを放って、
人の目に触れ、手に取られ、
買われて行く・・・
そんなことが、あるのだそうだ。
うちの店の書棚にも、
全国でもこの本を今取り扱っているのは、
ここだけ、というような、
希少な書籍が幾つかあるらしい。
こんな地味な本は、売れないだろう、と、
確信を持って見ていた本が、
とんとん、と、売れて行く、
嬉しい裏切りのシーンも、
何度か目の当たりにしている。
先々週だったか、
高円寺をブラブラしていた。
以前、大好きな、谷崎の『細雪』の文庫の、
とても状態の良いのを
格安で購入した古本屋に立ち寄った。
文庫のコーナーで、
谷崎を探したら、あったあった!
ここ何年も探していた、『台所太平記』を発見。
ずっと昔に絶版になっていて、
持っていた一冊をどこかで紛失してから、
色々な機会に探していたのだが、
やっと見つけた。
レジで300円払いながら、
古本屋の店番の兄ちゃんに、
見つかって嬉しい、と、お礼を言ったくらいだ。
わたし、Giovanniも、
いつか、本屋の兄ちゃんになれるかな?
月曜日, 2月 09, 2009
水曜日, 2月 04, 2009
そこに、もういない
Ciao! Giovanniです。
去年の暮れに、今住んでいるアパートの、
二度目の契約更新をした。
旧いが、普請がしっかりしているのと、
何せ、陽当たりが良いことが気に入っていて、
出来ることなら、ここにずっと住んでいたい、
そう思いながら暮らしている。
わたし、Giovanniが、引っ越しって来て、
その数日後に、
階下の部屋に入居した人がいた。
建設現場でのおしごとなのか、
幅広のズボンが、よく干してあった。
見た目の厳つさと、裏腹に、
ゼンソク持ちか何かだったのか、
夜中に、彼の咳が聞こえることがあった。
母がゼンソクということもあって、
あのての咳は、聞いていてもこちらが苦しくなる、
そんな辛い音である反面、
何だか懐かしさもあって、
夜の寝ばなの現の中で、どことなく、
心地よい気持ちすらしながら、
彼の咳を聞いたものだ。
その彼が、ある日引っ越してしまってから、
何だか気が抜けたような、物足りない夜を
いく夜か過ごしたのだったように、記憶している。
わたし、Giovanniが、
このアパートに入居した当初から、
3部屋隣に住んでいた人が、
先週引っ越したようだ。
口をきいたこともなかったし、
たまに、通路や階段でばったり出会っても、
ニコリともしない、
都会的なおつきあいだったのだが、
彼の部屋の電灯が、我が家のそれと同様、
白い蛍光灯の色ではなくて、
温かみを帯びた、黄色というかオレンジというか、
白熱灯の色だったことがあり、
夜遅くに帰ってきたときに、
真っ暗な我が家の三つ隣の、
オレンジ色の光が反射している窓が、
お帰り、と、言ってくれているようで、
嬉しかったのだ。
昨夜も、帰宅して、
もう今はだれもいない、その部屋の、
暗い窓を見上げながら、
少し寂しいと、感じた、
わたし、Giovanniだった。
去年の暮れに、今住んでいるアパートの、
二度目の契約更新をした。
旧いが、普請がしっかりしているのと、
何せ、陽当たりが良いことが気に入っていて、
出来ることなら、ここにずっと住んでいたい、
そう思いながら暮らしている。
わたし、Giovanniが、引っ越しって来て、
その数日後に、
階下の部屋に入居した人がいた。
建設現場でのおしごとなのか、
幅広のズボンが、よく干してあった。
見た目の厳つさと、裏腹に、
ゼンソク持ちか何かだったのか、
夜中に、彼の咳が聞こえることがあった。
母がゼンソクということもあって、
あのての咳は、聞いていてもこちらが苦しくなる、
そんな辛い音である反面、
何だか懐かしさもあって、
夜の寝ばなの現の中で、どことなく、
心地よい気持ちすらしながら、
彼の咳を聞いたものだ。
その彼が、ある日引っ越してしまってから、
何だか気が抜けたような、物足りない夜を
いく夜か過ごしたのだったように、記憶している。
わたし、Giovanniが、
このアパートに入居した当初から、
3部屋隣に住んでいた人が、
先週引っ越したようだ。
口をきいたこともなかったし、
たまに、通路や階段でばったり出会っても、
ニコリともしない、
都会的なおつきあいだったのだが、
彼の部屋の電灯が、我が家のそれと同様、
白い蛍光灯の色ではなくて、
温かみを帯びた、黄色というかオレンジというか、
白熱灯の色だったことがあり、
夜遅くに帰ってきたときに、
真っ暗な我が家の三つ隣の、
オレンジ色の光が反射している窓が、
お帰り、と、言ってくれているようで、
嬉しかったのだ。
昨夜も、帰宅して、
もう今はだれもいない、その部屋の、
暗い窓を見上げながら、
少し寂しいと、感じた、
わたし、Giovanniだった。
月曜日, 2月 02, 2009
行ったり、来たり。
月曜日, 12月 29, 2008
Giovanniのひそかな決心
そういえば、と、思いをたぐり寄せていけば、
やはり行き着くのは、
丸いテーブルのこと。
丸いテーブルを囲めば、
そこには、誰も疎外されず、
全ての人が孤独に陥ることもない。
『至聖三者(三位一体)のイコン』と呼ばれている、
このイコンについて、
あれは確か、ブラザー・エミールだったと思うが、
解説してくれたのを聞いて、
感心したことがあった。
この三人の聖人が一つのテーブルを囲む構図は、
円を意識した構図になっている。

イコンの中では、その円が完結しておらず、
未完成のままであるが、
このイコンに人が向き合うとき、
三人の聖者とその人自身の位置関係において、
完全な円が現れる。
つまり、自分自身も、このイコンに向き合ったとき、
この聖なる食卓に招かれ、
ともにそれを囲んでいる、という完全な構図が
浮き上がるのだ。
このブログで、何度書いたか分からないが、
わたし、Giovanniの、自分の”丸いテーブル”探しは、
いつも、シスター・テッサの、
あの時の一言によって、支えられている。
『きっといつか、あなたは、あなた自身の
丸いテーブルを見つけるわ。
ええ、必ず、いつか!』
この2年ほど、このブログを更新するのも、
随分、億劫になってしまっており、
せいぜい、クリスマスのメッセージを、
なんとかかんとか、書くのが精一杯になっていた。
日々、考えていること、思うこと、
そして、伝えたいと思っていることは、
そんなにたくさんは無いのだが、
幾つかは、この心のうちに、あるのだ。
どうしても、伝えたいと思っていることは。
やはり、そのためには、
この、”丸いテーブルを囲めば”が、
必要なものなのではないか、と、
一年の始めに、又、気持ちを新たに、
考えてみたりしている。
こう見えても、(さて、どう見えているのか?)
わたし、Giovanniの文章を、
それなりに気に入ってくれて、
楽しみにしてくれている人たちがいるようだ。
"Rhino memorized"というブログを、
書いている、Rhinoさんも、
折りにふれて、わたしの拙い文章を、
楽しみにしている、と、言ってくださる一人。
わたしの文章なんかより、うんと、高尚な文章を、
抜群なセンスの写真と一緒に、アップしておられる。
この未だ、実際には会ったことのない、
rhinoさんとも、
先述のイコンのように、
このブログを通して、同じ食卓を囲むことができる。
それであれば、やっぱり、
細々ながらも、もう少し、
腰を据えて、やって行かなきゃな、と、
ひそかにな決心を固めた、わたし、Giovanni。
このブログの、わたしの伝えたいことを、
わたしの知らないどこかで、
読んでくださる人が、いるのならば、
そんなみなさんとも、知らない間に、
丸い円を描いて座っているうのだろう。
ときどき、声をかけてくれたり、
そっと、何か印を残して行ってくれたら、
わたし、Giovanniも、
励まされ、力を与えられるに違いない、と、
思っている。
やはり行き着くのは、
丸いテーブルのこと。
丸いテーブルを囲めば、
そこには、誰も疎外されず、
全ての人が孤独に陥ることもない。
『至聖三者(三位一体)のイコン』と呼ばれている、
このイコンについて、
あれは確か、ブラザー・エミールだったと思うが、
解説してくれたのを聞いて、
感心したことがあった。
この三人の聖人が一つのテーブルを囲む構図は、
円を意識した構図になっている。

イコンの中では、その円が完結しておらず、
未完成のままであるが、
このイコンに人が向き合うとき、
三人の聖者とその人自身の位置関係において、
完全な円が現れる。
つまり、自分自身も、このイコンに向き合ったとき、
この聖なる食卓に招かれ、
ともにそれを囲んでいる、という完全な構図が
浮き上がるのだ。
このブログで、何度書いたか分からないが、
わたし、Giovanniの、自分の”丸いテーブル”探しは、
いつも、シスター・テッサの、
あの時の一言によって、支えられている。
『きっといつか、あなたは、あなた自身の
丸いテーブルを見つけるわ。
ええ、必ず、いつか!』
この2年ほど、このブログを更新するのも、
随分、億劫になってしまっており、
せいぜい、クリスマスのメッセージを、
なんとかかんとか、書くのが精一杯になっていた。
日々、考えていること、思うこと、
そして、伝えたいと思っていることは、
そんなにたくさんは無いのだが、
幾つかは、この心のうちに、あるのだ。
どうしても、伝えたいと思っていることは。
やはり、そのためには、
この、”丸いテーブルを囲めば”が、
必要なものなのではないか、と、
一年の始めに、又、気持ちを新たに、
考えてみたりしている。
こう見えても、(さて、どう見えているのか?)
わたし、Giovanniの文章を、
それなりに気に入ってくれて、
楽しみにしてくれている人たちがいるようだ。
"Rhino memorized"というブログを、
書いている、Rhinoさんも、
折りにふれて、わたしの拙い文章を、
楽しみにしている、と、言ってくださる一人。
わたしの文章なんかより、うんと、高尚な文章を、
抜群なセンスの写真と一緒に、アップしておられる。
この未だ、実際には会ったことのない、
rhinoさんとも、
先述のイコンのように、
このブログを通して、同じ食卓を囲むことができる。
それであれば、やっぱり、
細々ながらも、もう少し、
腰を据えて、やって行かなきゃな、と、
ひそかにな決心を固めた、わたし、Giovanni。
このブログの、わたしの伝えたいことを、
わたしの知らないどこかで、
読んでくださる人が、いるのならば、
そんなみなさんとも、知らない間に、
丸い円を描いて座っているうのだろう。
ときどき、声をかけてくれたり、
そっと、何か印を残して行ってくれたら、
わたし、Giovanniも、
励まされ、力を与えられるに違いない、と、
思っている。
聞こえないことばに耳を傾けるということ
Ciao! Giovanniです。
すっかり、ごぶさたをしてしまったことに、
気がついていなかったわけではない。
時間が過ぎ去るスピードが、
あまりにも速く、
それについて行くことが出来ないでいただけである。
と、言い訳する、わたし、Giovanni。
ことし一年、
ほとんどこのブログを更新することも無く、
去年のクリスマスメッセージが、
ページの上のほうに、まだ残っている始末である。
職場の仲間たちを中心とした、友人たちへ、
クリスマスメッセージを送るようになった経緯は、
去年のクリスマスメッセージを、
ご覧いただけば良いかと。
今年は、職場が異動になったこともあり、
こんなメッセージを受け取るのは、
初めてだろうと思われる連中も何人かいたのだが、
シンプルに、それでいて、
十分にことばを吟味しながら、
以下のようなメッセージを送ったのだった。
**********************
『クリスマスの夜に。
今年はたくさん色々なことがあった。
母の病気のこと、新しい店のオープンのこと。
世の中の様々な状況が、
めまぐるしく変化した一年でもあった。
一年を締めくくる、このクリスマスの夜に、
ひとことだけ、親しい人たちに、伝えたいこと。
社会で生きている限り、
人とのコミュニケーションが
いかに大切であるかということは、
日々実感させられている。
口に出して、
お互いの意志を確認しあったりすることが、
とても大事だと言われているし、
自分でもそう思っている。
でも、ふと、こんなことにも気づいたのだけれど・・・
わたしたちの生きている日々の生活の中に、
声にならない声、
心の叫びがあるということ。
様々な理由で、
------あるときは病いであったり、
あるときは政治的抑圧であったり-------
じっとどこかの暗闇で声をこらしている人たちが
いるのではないか、と。
そういう声、叫びに、
もっと耳を傾けることができないか、と、思う。
本当は聞いて欲しいのに、
聞いてもらうのを待っている人たちの存在に、
もっと、気がつくことができるようになりたいと思う。
母が患っている鬱という病いとの付き合いも、
早くも半年以上。
おかげさまで、
日々、電話で聞く声も元気が増しているように思う。
それでも、ちょっとしたことで、
電話口で泣きじゃくることもあり、
この病いの手強さに、やりきれなく思うこともある。
クリスマスの夜が明けて、
新しい朝には、
また、新しい生きる希望が必ず生まれるということを、
わたしは自分の口で語りたい。そう思っている。』
***********************
今、わたしたちが生きている社会、世界は、
たくさんのことばによる情報が溢れかえっている。
キリスト教は、神=ことば、と、言っているように、
キリストのことばを中心とした、
信仰であると言うことができる。
しかしながら、ここで言っていることばとは、
日本の政治家たちが、
語っては取り消し、口に出しては訂正するような、
安易な、その場しのぎのものではなく、
真実、真理を伝えることばであり、
過剰な情報を伝えるものではなく、
とても単純で、素朴なことばでもあるのだ。
耳から入っては消えてゆく、
そんな雑音、騒音とも思えることばの氾濫の中で、
耳をこらして聞こうとしなければ、
聞き取ることができないことばがある。
或は、耳では聞こえない、
恐らく、心で聞かなかればならないことばも、
存在している。
語りたい、聞いて欲しい、
でも、口に出して言うことが出来ないでいる。
戸外へ出て、往来で口を開くことすらできない、
そんな状況にいる。
他人に聞かせたいことがあることに、
自分自身もそれに気がついていない人がいる・・・
それらのことばを聞くために、
もっと、耳を傾けることができたら。
心を自由にしておくことができたら。
母が鬱病と診断される前の数週間、
電話で話す度に、
なんだか調子が悪い、気持ちが落ち込む、と、
母が言っていたのを思い出す。
今にして思うと、
あれが鬱病の予兆、始まり、だったのだろう。
日に日に、電話口の声がか細くなり、
元気が無くなっていった、
あの頃の母のことばに、
もっと耳を傾けてやれば良かった。
今となっては、悔やまれるばかりである。
鬱病を患う人と接するときには、
相手が言うことを否定したり、反対意見を述べたりは、
禁物だと教えられた。
それよりは、うん、うん、と、耳を傾け聞いてやり、
そうなのか、そうだったのか、と、
相手のことばに同調してやるものだと言われた。
励ましや、助言のつもりで、
何か多くを語るよりは、
静かに、相手の話を聞いてやるのが良いようだ。

おかげさまで、
母の病いは、
ゆっくりだが、少しずつ、快方に向かっている。
これからは、もっと、彼女のささいなことばにも、
熱心に耳を傾けようと思う。
**********************
耳を傾けるばかりでなくて、
もし、出来るだけ単純素朴なことばを、
相手に語りかけるとするならば、
新しい朝とともに、新しい希望が、
生まれるのだということを、
わたし、Giovanniは、伝えたいと思っている。
すっかり、ごぶさたをしてしまったことに、
気がついていなかったわけではない。
時間が過ぎ去るスピードが、
あまりにも速く、
それについて行くことが出来ないでいただけである。
と、言い訳する、わたし、Giovanni。
ことし一年、
ほとんどこのブログを更新することも無く、
去年のクリスマスメッセージが、
ページの上のほうに、まだ残っている始末である。
職場の仲間たちを中心とした、友人たちへ、
クリスマスメッセージを送るようになった経緯は、
去年のクリスマスメッセージを、
ご覧いただけば良いかと。
今年は、職場が異動になったこともあり、
こんなメッセージを受け取るのは、
初めてだろうと思われる連中も何人かいたのだが、
シンプルに、それでいて、
十分にことばを吟味しながら、
以下のようなメッセージを送ったのだった。
**********************
『クリスマスの夜に。
今年はたくさん色々なことがあった。
母の病気のこと、新しい店のオープンのこと。
世の中の様々な状況が、
めまぐるしく変化した一年でもあった。
一年を締めくくる、このクリスマスの夜に、
ひとことだけ、親しい人たちに、伝えたいこと。
社会で生きている限り、
人とのコミュニケーションが
いかに大切であるかということは、
日々実感させられている。
口に出して、
お互いの意志を確認しあったりすることが、
とても大事だと言われているし、
自分でもそう思っている。
でも、ふと、こんなことにも気づいたのだけれど・・・
わたしたちの生きている日々の生活の中に、
声にならない声、
心の叫びがあるということ。
様々な理由で、
------あるときは病いであったり、
あるときは政治的抑圧であったり-------
じっとどこかの暗闇で声をこらしている人たちが
いるのではないか、と。
そういう声、叫びに、
もっと耳を傾けることができないか、と、思う。
本当は聞いて欲しいのに、
聞いてもらうのを待っている人たちの存在に、
もっと、気がつくことができるようになりたいと思う。
母が患っている鬱という病いとの付き合いも、
早くも半年以上。
おかげさまで、
日々、電話で聞く声も元気が増しているように思う。
それでも、ちょっとしたことで、
電話口で泣きじゃくることもあり、
この病いの手強さに、やりきれなく思うこともある。
クリスマスの夜が明けて、
新しい朝には、
また、新しい生きる希望が必ず生まれるということを、
わたしは自分の口で語りたい。そう思っている。』
***********************
今、わたしたちが生きている社会、世界は、
たくさんのことばによる情報が溢れかえっている。
キリスト教は、神=ことば、と、言っているように、
キリストのことばを中心とした、
信仰であると言うことができる。
しかしながら、ここで言っていることばとは、
日本の政治家たちが、
語っては取り消し、口に出しては訂正するような、
安易な、その場しのぎのものではなく、
真実、真理を伝えることばであり、
過剰な情報を伝えるものではなく、
とても単純で、素朴なことばでもあるのだ。
耳から入っては消えてゆく、
そんな雑音、騒音とも思えることばの氾濫の中で、
耳をこらして聞こうとしなければ、
聞き取ることができないことばがある。
或は、耳では聞こえない、
恐らく、心で聞かなかればならないことばも、
存在している。
語りたい、聞いて欲しい、
でも、口に出して言うことが出来ないでいる。
戸外へ出て、往来で口を開くことすらできない、
そんな状況にいる。
他人に聞かせたいことがあることに、
自分自身もそれに気がついていない人がいる・・・
それらのことばを聞くために、
もっと、耳を傾けることができたら。
心を自由にしておくことができたら。
母が鬱病と診断される前の数週間、
電話で話す度に、
なんだか調子が悪い、気持ちが落ち込む、と、
母が言っていたのを思い出す。
今にして思うと、
あれが鬱病の予兆、始まり、だったのだろう。
日に日に、電話口の声がか細くなり、
元気が無くなっていった、
あの頃の母のことばに、
もっと耳を傾けてやれば良かった。
今となっては、悔やまれるばかりである。
鬱病を患う人と接するときには、
相手が言うことを否定したり、反対意見を述べたりは、
禁物だと教えられた。
それよりは、うん、うん、と、耳を傾け聞いてやり、
そうなのか、そうだったのか、と、
相手のことばに同調してやるものだと言われた。
励ましや、助言のつもりで、
何か多くを語るよりは、
静かに、相手の話を聞いてやるのが良いようだ。
おかげさまで、
母の病いは、
ゆっくりだが、少しずつ、快方に向かっている。
これからは、もっと、彼女のささいなことばにも、
熱心に耳を傾けようと思う。
**********************
耳を傾けるばかりでなくて、
もし、出来るだけ単純素朴なことばを、
相手に語りかけるとするならば、
新しい朝とともに、新しい希望が、
生まれるのだということを、
わたし、Giovanniは、伝えたいと思っている。
月曜日, 6月 09, 2008
非常事態宣言
きな臭いタイトルに、みなさんは驚いただろうか?
母のことは、ご心配なく。
ゆっくりではあるが、着実に、良い方向へと、
向かっている。
いつ頃だろうか?
スーパーの乳製品の棚を、何度も何度も確認したのに、
バターが無かったのは。
あれから、いつ行っても、いつ行っても、
無いのだ、バターが。
普段は、玄米ご飯、鰯の煮たの、小松菜のおしたし、
なんて食事が多いけれど、
そうは言っても、フランスは故郷みたいなものだから、
美味しいバゲットには、たっぷりバターを塗りたいし、
スプーン一杯のバターで、俄然風味を増す料理もある。
絶対無きゃ困る、と、言うものでもないけれど、
必要なときには、いつでも手に入れることが出来る、
当たり前の食品。
バターとは、そういうものだと思っていた。
なのに、無いのだ。
バターが、無いのだ。
この事態に、何も感じない人がいるのだろうか?
あぁ、バターが無いの、
で、済ませてしまうことができるのか?
友人のブログ、”終着までは、何哩?”で、
昭和のオイルショックについて思い出した。
トイレットペーパーが、店から姿を消したり、
そうそう、テレヴィも放送しない時間があったりした。
あれ以来の出来事である。
何か、当たり前にあったはずのものが、
どこかへこつ然と消えてしまった。
たかだか、200円か300円で買うことのできた、
バターが、消えてしまったのである。
これは、まさか、
次は牛乳が消え、その次は卵が消えて、
それから、パンも、米も、牛肉も、ビールも、
消えて無くなり、
そして、気がつけば、何もかもが失われてしまうことの
序の口なのではないだろうか?
まさか?
日本は、食生活に関しては、
恐らく、世界でも有数の国だと思う。
東京では、世界中の食べ物を食べることができるし、
デパートの地下などは、まさに、宝石箱のようなものだ。
と、同時に、食べ物を粗末にしたり、
無駄にしたりすることにおいても、
類い稀な国なのだ。
自給率の低さを、経済力にモノを言って、
輸入で補ってきたけれど、
さて、そんなアンバランスな矛盾を秘めた方法で、
こんな時代をどこまで乗り切ることができるのだろう?


母のことは、ご心配なく。
ゆっくりではあるが、着実に、良い方向へと、
向かっている。
いつ頃だろうか?
スーパーの乳製品の棚を、何度も何度も確認したのに、
バターが無かったのは。
あれから、いつ行っても、いつ行っても、
無いのだ、バターが。
普段は、玄米ご飯、鰯の煮たの、小松菜のおしたし、
なんて食事が多いけれど、
そうは言っても、フランスは故郷みたいなものだから、
美味しいバゲットには、たっぷりバターを塗りたいし、
スプーン一杯のバターで、俄然風味を増す料理もある。
絶対無きゃ困る、と、言うものでもないけれど、
必要なときには、いつでも手に入れることが出来る、
当たり前の食品。
バターとは、そういうものだと思っていた。
なのに、無いのだ。
バターが、無いのだ。
この事態に、何も感じない人がいるのだろうか?
あぁ、バターが無いの、
で、済ませてしまうことができるのか?
友人のブログ、”終着までは、何哩?”で、
昭和のオイルショックについて思い出した。
トイレットペーパーが、店から姿を消したり、
そうそう、テレヴィも放送しない時間があったりした。
あれ以来の出来事である。
何か、当たり前にあったはずのものが、
どこかへこつ然と消えてしまった。
たかだか、200円か300円で買うことのできた、
バターが、消えてしまったのである。
これは、まさか、
次は牛乳が消え、その次は卵が消えて、
それから、パンも、米も、牛肉も、ビールも、
消えて無くなり、
そして、気がつけば、何もかもが失われてしまうことの
序の口なのではないだろうか?
まさか?
日本は、食生活に関しては、
恐らく、世界でも有数の国だと思う。
東京では、世界中の食べ物を食べることができるし、
デパートの地下などは、まさに、宝石箱のようなものだ。
と、同時に、食べ物を粗末にしたり、
無駄にしたりすることにおいても、
類い稀な国なのだ。
自給率の低さを、経済力にモノを言って、
輸入で補ってきたけれど、
さて、そんなアンバランスな矛盾を秘めた方法で、
こんな時代をどこまで乗り切ることができるのだろう?


日曜日, 12月 30, 2007
今年のクリスマスメッセージ、その後
Ciao! Giovanniです。
あ、コレ、久しぶりに言った。前は毎回コレで始めてたはず。
さて、早いもので今年も残すところあと二日となった。
今年は、例年にないくらい時が経つのが早かったような気がする、
わたし、Giovanni。
ここ何年か、クリスマスに、職場の仲間たちに向けて、
ちょっとしたメッセージを送ることにしている。
職業柄、クリスマス=売り上げを穫る材料、のようになるのは、
こういう職業を選択した以上仕方の無いことだからこそ、
せめて、クリスマスの本当の意味を、少しでも良いから
知ってもらえたら嬉しい、そう思ってのことだ。
今年は、こんなメッセージを職場の何人かと、
その他の友人にも、携帯メールで送信したのだった。
『いちばん身近な人たちだからこそ
難しいけどちゃんと伝えたいこと。
本当のクリスマスについて 少しだけ知ってもらえれば嬉しい。
クリスマスは 家族や友だちと過ごして
楽しんだり喜んだりする日だけど そんな時に 一つ忘れないで欲しい。
世界中には今も貧困や戦争があって
絶望や悲しみにうちひしがれる人たちがいる。
或いは自分たちのもっと身近にも
孤独や人知れない悲しみの中に立ちすくんでいる人たちがいる。
そんな 遠くに近くにいる全ての人たちと
希望や喜びを分かち合う日、それが
クリスマス
暗闇に明るく光る星を見つけた日、それが クリスマス!』
あまり、キリスト教っぽくなるのは、
送られたほうも、困ってしまうだろうから、
色々と言葉を選んで、こういう文章にしてみたのだけれど、
どれだけ、伝わっただろうか、と、半信半疑だった。
しかしながら、それぞれが、それぞれの思いを込めて、
短い返信をくれた。
食事の前にお祈りをした、色々と考えさせられた、
みんなが今までよりももっと幸せになれるようにと思った、
クリスマスにたくさんの良いことがあるようにと思った・・・
あぁ、みんなそれぞれに、そういう思いが心の内に
あるのだなぁ、と、思って、
こちらの心が、じんわりと暖かくなるのを感じた。
中でも、もうかれこれ7、8年ものおつきあいになる、
職場近くのcoffee shopで働く、
Eさんからのメールには、心を打たれるものがあった。
『ありがとうございます!豊かな言葉のプレゼント。
あたしは色んな思いを抱えている人と
コミュニーケーションをとって心に小さな灯火をともせる人になりたい。
まずは家族、友達、井の頭から。
Giovanniさんも心穏やかなクリスマスを…』
心に灯火をともせる人、
誰かの暗闇に、小さな光を灯してあげることのできる人。
彼女が、そういう人になりたいと思っていること、
それが、もう既に、灯火であるということなのだと、
わたし、Giovanniは思う。
画像は、カトリック渋谷教会のお御堂ステンドグラス。
金曜日, 12月 21, 2007
いちばん長い夜に
今年は早々と、9月23日の日記に既に、
わたし、Giovanni、冬至のことを書いている。
『ヨーロッパの人たちが、
冬の暗さや寒さから来る、気の滅入りを、
少しでも和らげるために考えたのが、クリスマスだ、
という説を聞いたことがある。
クリスマスを12月25日とする根拠は、
実は聖書などには無くて、
古代ヨーロッパに既に存在していた太陽を祀る祭と、
キリストの誕生を結び付けた、という説である。
その太陽の祭が、
一年で一番夜の長い冬至の明け、
すなはち、太陽が夜の闇に打ち勝ち、
これから段々と日が長くなるというタイミングで、
祝われた、ということである。
そこに、キリストという救世主の誕生を結びつけて、
盛大にクリスマスを祝う根拠にしたわけである。
そういうことは別としても、
長く暗い冬の夜を、クリスマスを待ち望む喜びや楽しさ、
例えば、ドイツのクリスマス市などもそうだが、
そういうもので紛らわせるというのは、
一つの人間の知恵だったのかも知れない。』
クリスマスの本当の意味を、今自分の身近にいる人たちに、
巧く伝えるのは難しいことなような気もする。
それだけ、クリスマスの価値観が、
本来のものとは、かけ離れたものとなり、
それがそれで一人歩きして随分遠くまで行ってしまっているからだ。
そのような、一人歩きしてしまったクリスマスを、
批難したり、悲観したりするつもりは無いが、
願うならば、
みんなが、少し立ち止まって、
いちばん長い夜に、いちばん静かな夜に、
暗闇で目を凝らし、静寂の中で耳を澄ましてくれたら、と、思う。
世界の多くの国や、地域で、今もまさに、
いちばん長い夜の暗闇の中で、
どこかに、自分たちに希望があることを報せる、
小さな星の光がまばたいではいないだろうか、と、
目を凝らしている人たちが、いるということに、
気がつくことができたなら。
そういう人たちの、囁くような小さな声に、
耳を傾けることができたらなら、
クリスマスは、もっと、本来の喜びと、明るい光で、
素晴らしいものとなるのだと思う。
冬至の前日を、
キリスト教の幾つかの暦が、聖トマスの日としている。
聖トマスは、キリストの弟子の一人だが、
キリストが、十字架にかかって死んだ後、
三日目によみがえって現れた時、
その復活を信じなかった、疑いの心の持ち主だった。
復活したキリストに、
自分の脇腹を手で触れてみるように、促されて、
初めて、その復活を信じたトマス。
この『疑いの心』から、『信じる心』への移り変わりを、
いちばん夜が長い今日の日と、
明日から始まる新しい日の境目になぞらえて、
聖トマスの日としたのだと言う。
悲しみから喜びへ、憎しみから愛へ、分裂から和解へ・・・
世界中の、そして、わたしたちの中の、
全ての闇が、今日のこの日を境に、
だんだんと、希望にあふれる光へと変わっていきますように。
いちばん長い夜に、
わたし、Giovanniは、そう祈ってやまない。

冬至行き トマスも心 晴れ渡り
わたし、Giovanni、冬至のことを書いている。
『ヨーロッパの人たちが、
冬の暗さや寒さから来る、気の滅入りを、
少しでも和らげるために考えたのが、クリスマスだ、
という説を聞いたことがある。
クリスマスを12月25日とする根拠は、
実は聖書などには無くて、
古代ヨーロッパに既に存在していた太陽を祀る祭と、
キリストの誕生を結び付けた、という説である。
その太陽の祭が、
一年で一番夜の長い冬至の明け、
すなはち、太陽が夜の闇に打ち勝ち、
これから段々と日が長くなるというタイミングで、
祝われた、ということである。
そこに、キリストという救世主の誕生を結びつけて、
盛大にクリスマスを祝う根拠にしたわけである。
そういうことは別としても、
長く暗い冬の夜を、クリスマスを待ち望む喜びや楽しさ、
例えば、ドイツのクリスマス市などもそうだが、
そういうもので紛らわせるというのは、
一つの人間の知恵だったのかも知れない。』
クリスマスの本当の意味を、今自分の身近にいる人たちに、
巧く伝えるのは難しいことなような気もする。
それだけ、クリスマスの価値観が、
本来のものとは、かけ離れたものとなり、
それがそれで一人歩きして随分遠くまで行ってしまっているからだ。
そのような、一人歩きしてしまったクリスマスを、
批難したり、悲観したりするつもりは無いが、
願うならば、
みんなが、少し立ち止まって、
いちばん長い夜に、いちばん静かな夜に、
暗闇で目を凝らし、静寂の中で耳を澄ましてくれたら、と、思う。
世界の多くの国や、地域で、今もまさに、
いちばん長い夜の暗闇の中で、
どこかに、自分たちに希望があることを報せる、
小さな星の光がまばたいではいないだろうか、と、
目を凝らしている人たちが、いるということに、
気がつくことができたなら。
そういう人たちの、囁くような小さな声に、
耳を傾けることができたらなら、
クリスマスは、もっと、本来の喜びと、明るい光で、
素晴らしいものとなるのだと思う。
冬至の前日を、
キリスト教の幾つかの暦が、聖トマスの日としている。
聖トマスは、キリストの弟子の一人だが、
キリストが、十字架にかかって死んだ後、
三日目によみがえって現れた時、
その復活を信じなかった、疑いの心の持ち主だった。
復活したキリストに、
自分の脇腹を手で触れてみるように、促されて、
初めて、その復活を信じたトマス。
この『疑いの心』から、『信じる心』への移り変わりを、
いちばん夜が長い今日の日と、
明日から始まる新しい日の境目になぞらえて、
聖トマスの日としたのだと言う。
悲しみから喜びへ、憎しみから愛へ、分裂から和解へ・・・
世界中の、そして、わたしたちの中の、
全ての闇が、今日のこの日を境に、
だんだんと、希望にあふれる光へと変わっていきますように。
いちばん長い夜に、
わたし、Giovanniは、そう祈ってやまない。

冬至行き トマスも心 晴れ渡り
水曜日, 12月 05, 2007
晴れた冬の日に
社内監査があったのだけれど、
監査前の準備の担当を任されていた、わたし、Giovanni。
100点満点のところ98点という結果は、
一見、なかなかのものと見えるが、
『監査100点』を目標に掲げていたから、
100点取れなきゃ、仕方が無かったわけである。
その監査のお疲れ休みという意味で、
昨日今日と連休だった。
特別な予定も何も無かったのだけれど、
それでも冬の冴えた晴天を仰いでみたら、
どこかへ行きたいと思った。
電車とバスを乗り継いで・・・
などと思いを巡らせている間に、
冬の昼間は短く、気がつけば自分の影が、もう、随分と長く、
積もったイチョウの落ち葉の鋪道に映っていた。

そう、結局の所、どこへも行かず、
いつもの休日と同じように、
泳ぎに行った、わたし、Giovanni。
プールの帰りに、都内でも有数のY公園を散歩した。
寒い中、たくさんの人が、散歩したり、
色づいた木々をカメラに収めたりしていた。
晴れた冬の日は、わざわざ遠くへまで出かけなくても、
都会の真ん中の公園で見上げる青空さえ、
とてもクリアで、眩しくて、清々しい。
しかも、空の碧に映える、
様々な色の木の葉の彩りが美しい。
監査前の準備の担当を任されていた、わたし、Giovanni。
100点満点のところ98点という結果は、
一見、なかなかのものと見えるが、
『監査100点』を目標に掲げていたから、
100点取れなきゃ、仕方が無かったわけである。
その監査のお疲れ休みという意味で、
昨日今日と連休だった。
特別な予定も何も無かったのだけれど、
それでも冬の冴えた晴天を仰いでみたら、
どこかへ行きたいと思った。
電車とバスを乗り継いで・・・
などと思いを巡らせている間に、
冬の昼間は短く、気がつけば自分の影が、もう、随分と長く、
積もったイチョウの落ち葉の鋪道に映っていた。
そう、結局の所、どこへも行かず、
いつもの休日と同じように、
泳ぎに行った、わたし、Giovanni。
プールの帰りに、都内でも有数のY公園を散歩した。
寒い中、たくさんの人が、散歩したり、
色づいた木々をカメラに収めたりしていた。
晴れた冬の日は、わざわざ遠くへまで出かけなくても、
都会の真ん中の公園で見上げる青空さえ、
とてもクリアで、眩しくて、清々しい。
しかも、空の碧に映える、
様々な色の木の葉の彩りが美しい。
日曜日, 11月 18, 2007
物を語らず、物は語る
随分とごぶさたしてしまっている、わたし、Giovanni。
先月、慌てて書いておいたが、
10年位前から、ずーっと温めてきた児童小説を、
書き始めたら、止まらなくなってしまっている。
ユウジン、という男の子が主人公のお話なのだが、
彼を取り巻く大人たち、
母親のヘイゼル、聖アンジェラ修道院のシスターたち、
謎のおばあさんアンジェリーナ、
スワンセンさん夫妻、ヘクター博士・・・と、
大人もたくさん出てくるので、
単なるこども向けのお話、では済まなくなってきた。
お話を書く、というのは誠に不思議なもので、
物語の始まりと、終わりは分かっているのだが、
その途中は、作者であるわたしはあまり知らなくて、
主人公をはじめとした登場人物たちが、
どんどん、勝手に歩き出しては、
誰かに出会ったり、何かやらかしたり、と、
作者の手を完全に離れている、
そんな感有りである。
物語とは、物を語るのではなく、
物が語るのだ、というのは、まさにこのことを
言うようである。
先月、慌てて書いておいたが、
10年位前から、ずーっと温めてきた児童小説を、
書き始めたら、止まらなくなってしまっている。
ユウジン、という男の子が主人公のお話なのだが、
彼を取り巻く大人たち、
母親のヘイゼル、聖アンジェラ修道院のシスターたち、
謎のおばあさんアンジェリーナ、
スワンセンさん夫妻、ヘクター博士・・・と、
大人もたくさん出てくるので、
単なるこども向けのお話、では済まなくなってきた。
お話を書く、というのは誠に不思議なもので、
物語の始まりと、終わりは分かっているのだが、
その途中は、作者であるわたしはあまり知らなくて、
主人公をはじめとした登場人物たちが、
どんどん、勝手に歩き出しては、
誰かに出会ったり、何かやらかしたり、と、
作者の手を完全に離れている、
そんな感有りである。
物語とは、物を語るのではなく、
物が語るのだ、というのは、まさにこのことを
言うようである。
木曜日, 10月 04, 2007
日曜日, 9月 23, 2007
冬至と浴衣
ここ数日は、突然、気圧配置が大きく変わったのか、
ほんの少し前までのムッとした残暑を忘れ、
朝晩など、ひんやりとすらする。
前から何度も話しているが、
この、気圧配置の大きな変動が、
わたし、Giovanniの大きな弱点なのである。
冬眠する森の動物たちのように、
季節の変わり目の、大きな変化を、じっと眠ってやり過ごす。
眠っている間に、ゆっくり体を馴らしていく。
学生時代なんかは、こういう季節、
うっかりとすると2、3日くらい学校をサボってしまったり、
などということもあったが、
流石に、仕事をしているとそういうわけにはいかず、
その分、休みの日は、何となくダラダラ、ズルズルと、
一日を送ってしまう。
暫くは、そういう休日が続きそうな、季節の節目である。
こうなると、もう仕方ない。
夏は終ったと観念せねばならない。
もう、秋が始まったのだと、腹をくくらなければ。
何を大げさな、とおっしゃるやも知れないが、
これがわたし、Giovanniにとっては、大きなできごとで、
秋から冬の季節に滅法弱いのである。
卵が先か、にわとりが先か、と同様、
体と精神と、どちらが先になるのかは分からないが、
秋冬は、先ず、精神的に駄目になってしまうのだ。
気が滅入る、という表現そのままに、
奈落の底の深い深い場所へ、ずーっと気持ちが引きずり込まれ、
その暗い淵から這い上がることが出来なくなるような感覚。
そういう感覚が、12月の冬至まで続く。
(夜が一番長い冬至を過ぎると、
まるで憑き物が落ちるように、気分が軽くなるのだ)
だからこそ、わたしにとっては、
この”夏の収束を受け入れる”ということが、
大きな覚悟の必要な、毎年の一大イヴェントなのである。
ヨーロッパの人たちが、
冬の暗さや寒さから来る、気の滅入りを、
少しでも和らげるために考えたのが、クリスマスだ、
という説を聞いたことがある。
クリスマスを12月25日とする根拠は、
実は聖書などには無くて、
古代ヨーロッパに既に存在していた太陽を祀る祭と、
キリストの誕生を結び付けた、という説である。
その太陽の祭が、
一年で一番夜の長い冬至の明け、
すなはち、太陽が夜の闇に打ち勝ち、
これから段々と日が長くなるというタイミングで、
祝われた、ということである。
そこに、キリストという救世主の誕生を結びつけて、
盛大にクリスマスを祝う根拠にしたわけである。
そういうことは別としても、
長く暗い冬の夜を、クリスマスを待ち望む喜びや楽しさ、
例えば、ドイツのクリスマス市などもそうだが、
そういうもので紛らわせるというのは、
一つの人間の知恵だったのかも知れない。
話が、随分飛躍してしまったけれど、
わたし、Giovanniも、そういう季節だからこそ、
静かな秋冬の夜を、少しでも気分を紛らわせながら
過ごしたいと思うわけである。
例年、このブログにせっせと文章を書いたり、
好きな長編の小説を、読み返したり、創意工夫してみている。
そんな今年の秋冬には、ちょっとした一仕事が。
毎年、夏が始まると、
今年こそは、浴衣を着るぞ!と、思い立つのだが、
生まれてこのかた、一度も自分の浴衣を持ったことがない。
数年前から、毎夏の初めに、浴衣を作る宣言をするが、
叶った試しがない。
今夏も、御多分にもれず、
作年の夏の終わりに、仲良しのAちゃんという女の子と、
来年の夏前に、浴衣の生地を見に行こうと、
固く約束をしたはずなのに、
結局、今年の夏、Aちゃんに会ったのは、
混雑する電車の乗り換えの通路と、
飲み会帰りの駅前の繁華街だった。
しかしながら、どうしても今年こそは、
という気持ちもあったので、
まだ、今からならひょとすると間に合うやも知れない、と、
8月の終わりに、駆け込むようにして、
生地代と別に、5千円で浴衣を仕立ててくれるという店へ、
生地の見立てに一人で行ったのだった。
賢明な読者のみなさんは、お察しかと思うけれど、
いかなることでも、人と同じは極力避けたいのが、
わたし、Giovanniの常。
以前から、紺地や黒地に白い縞、なんていう生地は、
全く念頭に無く、
考えていたのは、茶色の細かいギンガムチェックの浴衣。
斬新じゃないですか?ギンガムチェックと言えば、
ボタンダウンのシャツか、テーブルクロスか?
で、そんなつもりで生地を選びに行ったのだけれども、
色々吟味しながら、綿のものよりは、
麻の方がシャリ感もあって、良いかという結論に。
そこで、麻のコーナーを覗いてみたら・・・

見つけた、これぞまさに、Giovanni的な柄ゆき。
コーヒー多めのカプチーノ色の地に、比較的明るい水色の格子。
この生地を見つけて、
すぐさま思い描いた全体のコーディネートは、
格子の水色に合わせた青系の帯で、足元は、革のサンダル。
そんな、いでたち。
しかも、夏の終わりの特価品で、赤札のついた反物を持って、
いそいそと、申し込みカウンターへ、と、ふと、
みると『かんたん、浴衣ソーイング』。
自分で浴衣を縫う人のための、型紙ではありませんか!
即座に、わたしの頭の中の計算機が、はじき出した答えは、
『型紙が500円だから、自分で縫えば4500円のお得!」
という答え。
4500円と言えば、結構なお代ですよ、旦那ぁ〜と、
自分で自分に言い聞かせた。
裁縫は初めてではないが、浴衣を縫うのは生まれて初めて。
先ずは、型紙とにらめっこから。
ようやく、型紙を切り抜くところまで辿り着いた。
これから3ヶ月かけて、完成させる予定である。
これからの、秋の夜長、縫い針をチクチクと進めながら、
わたし、Giovanniは、何を思いながら過ごすだろう?
浴衣作りの進捗は、随時ここでまた、
ご紹介してゆきたいと思っているが、
何はともあれ、このシーズンを乗り越え、
無事に冬至の日を迎えられるようにと、切に願うだけである。
ほんの少し前までのムッとした残暑を忘れ、
朝晩など、ひんやりとすらする。
前から何度も話しているが、
この、気圧配置の大きな変動が、
わたし、Giovanniの大きな弱点なのである。
冬眠する森の動物たちのように、
季節の変わり目の、大きな変化を、じっと眠ってやり過ごす。
眠っている間に、ゆっくり体を馴らしていく。
学生時代なんかは、こういう季節、
うっかりとすると2、3日くらい学校をサボってしまったり、
などということもあったが、
流石に、仕事をしているとそういうわけにはいかず、
その分、休みの日は、何となくダラダラ、ズルズルと、
一日を送ってしまう。
暫くは、そういう休日が続きそうな、季節の節目である。
こうなると、もう仕方ない。
夏は終ったと観念せねばならない。
もう、秋が始まったのだと、腹をくくらなければ。
何を大げさな、とおっしゃるやも知れないが、
これがわたし、Giovanniにとっては、大きなできごとで、
秋から冬の季節に滅法弱いのである。
卵が先か、にわとりが先か、と同様、
体と精神と、どちらが先になるのかは分からないが、
秋冬は、先ず、精神的に駄目になってしまうのだ。
気が滅入る、という表現そのままに、
奈落の底の深い深い場所へ、ずーっと気持ちが引きずり込まれ、
その暗い淵から這い上がることが出来なくなるような感覚。
そういう感覚が、12月の冬至まで続く。
(夜が一番長い冬至を過ぎると、
まるで憑き物が落ちるように、気分が軽くなるのだ)
だからこそ、わたしにとっては、
この”夏の収束を受け入れる”ということが、
大きな覚悟の必要な、毎年の一大イヴェントなのである。
ヨーロッパの人たちが、
冬の暗さや寒さから来る、気の滅入りを、
少しでも和らげるために考えたのが、クリスマスだ、
という説を聞いたことがある。
クリスマスを12月25日とする根拠は、
実は聖書などには無くて、
古代ヨーロッパに既に存在していた太陽を祀る祭と、
キリストの誕生を結び付けた、という説である。
その太陽の祭が、
一年で一番夜の長い冬至の明け、
すなはち、太陽が夜の闇に打ち勝ち、
これから段々と日が長くなるというタイミングで、
祝われた、ということである。
そこに、キリストという救世主の誕生を結びつけて、
盛大にクリスマスを祝う根拠にしたわけである。
そういうことは別としても、
長く暗い冬の夜を、クリスマスを待ち望む喜びや楽しさ、
例えば、ドイツのクリスマス市などもそうだが、
そういうもので紛らわせるというのは、
一つの人間の知恵だったのかも知れない。
話が、随分飛躍してしまったけれど、
わたし、Giovanniも、そういう季節だからこそ、
静かな秋冬の夜を、少しでも気分を紛らわせながら
過ごしたいと思うわけである。
例年、このブログにせっせと文章を書いたり、
好きな長編の小説を、読み返したり、創意工夫してみている。
そんな今年の秋冬には、ちょっとした一仕事が。
毎年、夏が始まると、
今年こそは、浴衣を着るぞ!と、思い立つのだが、
生まれてこのかた、一度も自分の浴衣を持ったことがない。
数年前から、毎夏の初めに、浴衣を作る宣言をするが、
叶った試しがない。
今夏も、御多分にもれず、
作年の夏の終わりに、仲良しのAちゃんという女の子と、
来年の夏前に、浴衣の生地を見に行こうと、
固く約束をしたはずなのに、
結局、今年の夏、Aちゃんに会ったのは、
混雑する電車の乗り換えの通路と、
飲み会帰りの駅前の繁華街だった。
しかしながら、どうしても今年こそは、
という気持ちもあったので、
まだ、今からならひょとすると間に合うやも知れない、と、
8月の終わりに、駆け込むようにして、
生地代と別に、5千円で浴衣を仕立ててくれるという店へ、
生地の見立てに一人で行ったのだった。
賢明な読者のみなさんは、お察しかと思うけれど、
いかなることでも、人と同じは極力避けたいのが、
わたし、Giovanniの常。
以前から、紺地や黒地に白い縞、なんていう生地は、
全く念頭に無く、
考えていたのは、茶色の細かいギンガムチェックの浴衣。
斬新じゃないですか?ギンガムチェックと言えば、
ボタンダウンのシャツか、テーブルクロスか?
で、そんなつもりで生地を選びに行ったのだけれども、
色々吟味しながら、綿のものよりは、
麻の方がシャリ感もあって、良いかという結論に。
そこで、麻のコーナーを覗いてみたら・・・
見つけた、これぞまさに、Giovanni的な柄ゆき。
コーヒー多めのカプチーノ色の地に、比較的明るい水色の格子。
この生地を見つけて、
すぐさま思い描いた全体のコーディネートは、
格子の水色に合わせた青系の帯で、足元は、革のサンダル。
そんな、いでたち。
しかも、夏の終わりの特価品で、赤札のついた反物を持って、
いそいそと、申し込みカウンターへ、と、ふと、
みると『かんたん、浴衣ソーイング』。
自分で浴衣を縫う人のための、型紙ではありませんか!
即座に、わたしの頭の中の計算機が、はじき出した答えは、
『型紙が500円だから、自分で縫えば4500円のお得!」
という答え。
4500円と言えば、結構なお代ですよ、旦那ぁ〜と、
自分で自分に言い聞かせた。
裁縫は初めてではないが、浴衣を縫うのは生まれて初めて。
先ずは、型紙とにらめっこから。
ようやく、型紙を切り抜くところまで辿り着いた。
これから3ヶ月かけて、完成させる予定である。
これからの、秋の夜長、縫い針をチクチクと進めながら、
わたし、Giovanniは、何を思いながら過ごすだろう?
浴衣作りの進捗は、随時ここでまた、
ご紹介してゆきたいと思っているが、
何はともあれ、このシーズンを乗り越え、
無事に冬至の日を迎えられるようにと、切に願うだけである。
水曜日, 9月 19, 2007
毎日書く、日記なるもの
『日記(にっき)とは、日々の出来事を記した記録で、
今日では文学の一ジャンルに数えられており、
文学の最も初期のかたちのひとつとも見られている。
あるいは、初期のかたちという以上に、
人がものを書くという行為の原初的なもので、
文学という概念以前のものといってよいかもしれない。
英語では、Diaryという表現の他に
Personal journalという表現もなされる。』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
だそうだ。
以前にも、何度かここで話したが、
自転車通勤をしている間の時間というのは、
日頃考えたり、思ったりしていたことを、
思い切って、ことばにするための時間であったりもする。
あったりも、と、言うのは、
必ずしも、いつもそのための時間だけであるのでなくて、
場合によると、
カラオケばりに好きな歌を熱唱する時間であったりもするからだ。
思い切って、ことばにするための時間。
そう、口に出して言ってみると、
自分の思考が、すんなりとまとまったり、
当然に思っていたことの、矛盾点を発見できたりする。
口に出して、(実際に声に出す、出さないは別として)
表現するときに、
それはやはり、聞き手を想定して、ということになるのだが、
わたし、Giovanniの場合、
どちらかと言うと、読み手を想定した、
書きことばを、丁寧に選ぶことに重きを置いていると、
自分では思っている。
昔から、文章を書くことが好きだった。
起承転結を明確に意識することは、あまり無かったかとは思うが、
1000字以内で書く小論文とかを、巧く落ちをつけて、
しかも、最後の一マスに、『。』を書くときの満足感。
学校へ行くことは、どちらかと言うと、あまり好きではなかったのだが、
国語の時間、特に、作文の授業となると、
俄然張り切っていたのではなかったかと思う。
しかしながら、毎日書く、日記というものは、
あまり得意ではなかった。
そもそも、毎日、決まったことを継続してやるという
粘り強さなどは、欠けていたし、
今日はこんなことがあって、あんなことをした、
などという、さらりとした文章を書くのは苦手だった。
練りに練って、何度もことばを並び替えたり、
より相応しい単語を、吟味したりしながら書く文章のほうが、
得意だったのだ。
通勤時間に、誰かに読み聞かせるようにして作りあげる
わたし、Giovanniの文章。
しかし、残念なことながら、自転車をこぎながらであるが故に、
その文章を、書き留めることはないままである。
そんな、日々、生まれて忘れられていく文章を、
少しでも、ここに、
自らの記録として、記憶に残すため、
書き記して行くことができれば、と、改めて思うのである。
毎日書く、日記。
三日坊主ということばが、似合う日記にならないように、
と、願ってやまない。

今年初めて拾った、ドングリ。
わたし、Giovanni、昔、
お寺の裏山でドングリを1000個拾ったことがある。
今日では文学の一ジャンルに数えられており、
文学の最も初期のかたちのひとつとも見られている。
あるいは、初期のかたちという以上に、
人がものを書くという行為の原初的なもので、
文学という概念以前のものといってよいかもしれない。
英語では、Diaryという表現の他に
Personal journalという表現もなされる。』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
だそうだ。
以前にも、何度かここで話したが、
自転車通勤をしている間の時間というのは、
日頃考えたり、思ったりしていたことを、
思い切って、ことばにするための時間であったりもする。
あったりも、と、言うのは、
必ずしも、いつもそのための時間だけであるのでなくて、
場合によると、
カラオケばりに好きな歌を熱唱する時間であったりもするからだ。
思い切って、ことばにするための時間。
そう、口に出して言ってみると、
自分の思考が、すんなりとまとまったり、
当然に思っていたことの、矛盾点を発見できたりする。
口に出して、(実際に声に出す、出さないは別として)
表現するときに、
それはやはり、聞き手を想定して、ということになるのだが、
わたし、Giovanniの場合、
どちらかと言うと、読み手を想定した、
書きことばを、丁寧に選ぶことに重きを置いていると、
自分では思っている。
昔から、文章を書くことが好きだった。
起承転結を明確に意識することは、あまり無かったかとは思うが、
1000字以内で書く小論文とかを、巧く落ちをつけて、
しかも、最後の一マスに、『。』を書くときの満足感。
学校へ行くことは、どちらかと言うと、あまり好きではなかったのだが、
国語の時間、特に、作文の授業となると、
俄然張り切っていたのではなかったかと思う。
しかしながら、毎日書く、日記というものは、
あまり得意ではなかった。
そもそも、毎日、決まったことを継続してやるという
粘り強さなどは、欠けていたし、
今日はこんなことがあって、あんなことをした、
などという、さらりとした文章を書くのは苦手だった。
練りに練って、何度もことばを並び替えたり、
より相応しい単語を、吟味したりしながら書く文章のほうが、
得意だったのだ。
通勤時間に、誰かに読み聞かせるようにして作りあげる
わたし、Giovanniの文章。
しかし、残念なことながら、自転車をこぎながらであるが故に、
その文章を、書き留めることはないままである。
そんな、日々、生まれて忘れられていく文章を、
少しでも、ここに、
自らの記録として、記憶に残すため、
書き記して行くことができれば、と、改めて思うのである。
毎日書く、日記。
三日坊主ということばが、似合う日記にならないように、
と、願ってやまない。
今年初めて拾った、ドングリ。
わたし、Giovanni、昔、
お寺の裏山でドングリを1000個拾ったことがある。
火曜日, 9月 18, 2007
今宵、再び、丸いテーブルを囲めば
まずは、このブログを始めてすぐの頃の、こんな日記を
改めて読み返してみたい。
『もう、かれこれ20年くらい、
わたし、Giovanniは、自分の”丸いテーブル”を探し求めています。
20年前に、生活をしていた、
フランスのcommunauteのダイニングテーブルの中に、
丸いテーブルが幾つもあったのだけれど、
いつか自分も、こんな丸いテーブルのある生活をしたい、
と、Sister Tessaにもらしたところ、
Oh, Giovanni! I am sure that you will find
your own round table one day!
と、彼女はキッパリと、言ったのでした。
あれ以来、彼女の言葉を信じる、その根拠も知らないまま、
ずっと、変わらずに、自分自身の”丸いテーブル”を
わたし、Giovanniは、探し求めているのです。
丸いテーブルって、何なんだろう?
例えば、相互の利害関係に大きな緊張感を持った国々が、
何かの交渉ごとを行う場合、
丸いテーブルを囲むという光景を、
みなさんは、観た事ないでしょうか?
日本の、上座、下座というような、位置関係による
人間関係のランク付けのようなものって、
世界の様々な文化の中にもあるのではないかと思うのです。
そういうランク付けを、完全にではないにしろ、
かなり、無視することのできる方法が、
丸いテーブルを囲む、ということ。
四角いテーブルだと、どうしても、
『ああん、何で俺はこんな角っこなんだよぉ!』のような、
不公平感が生まれてしまうけれど、
丸いと、何だかそれだけで、円満な感覚を覚えませんかね?
フランス時代、Le Puitsー井戸という意味ーという名前のついた、
可愛い家の管理人をしていたことがあります。
そこは、communauteの宿舎になっていて、
1週間単位で、20人程度の人が宿泊する施設でした。
その家のダイニングテーブルは、大きな木製の丸いテーブルで、
随分古い物のようでした。
その日の宿泊者人数に合わせて、食事前に
テーブルセッティングをするのですが、
20人分をきっちりセットして、
皆が席に着いて食事を始めようとするころに、
飛び入りや、たった今アメリカから到着、南アフリカから到着、
というような人たちがやってきたりして、
慌てて、椅子を足したり、スープ用の皿を取り出したり。
そういう時でも、丸いテーブルであれば、みんなが少しずつ、
自分とテーブルの距離を遠くするようにすれば、
難なくみんなでテーブルを囲む事ができるのでした。
ともに食卓を囲む、という事の大切さを、
現代に生きるわたしたちは、どんどん忘れてしまっていないでしょうか?
個人の意志や、志向が尊重されることは、
それはそれで意義のあることです。
しかし、一つの食卓を囲み、
同じ皿から同じ食べ物を分け合って食する、という、
人間の最もシンプルな、共同体としての行為を、
わたしたちは、急速に失ってきているということに、
危惧を感じる事すら無いのでしょうか?
一つの家族ですら、
親子が別に食事をするとか、兄弟が別の物を食べるとか。
家庭における食卓も、
今や人間社会の最も基本的な共同体ユニットである家族にあっての
役割を果たす事がなくなってしまったのでしょうか?
みんなで、丸いテーブルを囲むということ。
わたし、Giovanniは、これを求めているのです。』
ちょっと若い感じのする、初々しい文章に、
自分ながら、少し照れる気がするのだけれど・・・
実は、ここ数ヶ月、このブログという場所を借りて、
自分は何を伝えたいのだろうか?何を分かってもらいたいのだろうか?
と、言う、大きな疑問にぶつかって、
行き止まりの迷路から、抜け出すことができないでいた。
何か、無理矢理、それらしいことを書こうとすると、
そんな文章は何だかよそよそしくて、
自分ではないような気がしてしまい、
書きかけては、放り出し、しているうちに、
自分の本当のことばを、失ってしまったようにも思えたのだった。
つい今しがた、
明日、仕事が休みだというのを良いことに、
パソコンの前で、ネットサーフィンに興じていたのだが、
ふと思いたって、こんな文字を入れて検索をしてみた。
”Les souers de St. Andre"
これは、ベルギーに本部を置く、女子修道会の名前で、
今、読み返した、昔の日記に登場する、
Sister Tessaが属している修道会なのである。
今までにも、同様に、彼女たちの修道会の名前で、
検索をしたことがあったはずだが、
これという検索の結果が出てきたことはなかったのに、
比較的最近のアップなのだろうか、
今日は、この修道会のwebサイトが紹介されたのだった。
そこには、
彼女たちのvocation、つまり、キリスト教で言うところの”招命”、
修道会の歴史や、現在の活動などが、
フランス語で紹介されていた。
サイトの最初のページに、
15、6名のシスターたちが、家の前で集まったところの
写真が掲載されていた。
懐かしい顔ぶれが何人もいて、嬉しくて目が釘付けになった。
その面々の中に、
別のシスターたちの後ろで、ちょっと隠れるようにして立っている、
Tessaの姿があった。
写真が小さくて、はっきりとは見えないが、
グレーがかった瞳の色が、より薄いグレーに見え、
縮れてフワフワとしていた髪も、
心無しか、グレーがかったように見える。
彼女に最後に会ったのが、12年前。
月日がそれだけ経ったことを物語る写真である。
彼女が、
まだ随分と若かった、わたし、Giovanniに、言ったことば、
『いつかあなたも、
あなた自身の丸いテーブルを見つける日が来るわ』
が、この一枚の写真の中で、
少しはにかんだようにして、それでも、
あの頃と全く変わらない笑顔でいるTessaによって、
改めて、鮮やかに思い出された、今宵。
そして、
わたし、Giovanniが、
このブログを読む全ての人、あなたに、伝えたかったこと、
それが何であるかを思い出した、今宵。
再び、あなたと、
この”丸いテーブル”を囲みたいと思って止まない。
改めて読み返してみたい。
『もう、かれこれ20年くらい、
わたし、Giovanniは、自分の”丸いテーブル”を探し求めています。
20年前に、生活をしていた、
フランスのcommunauteのダイニングテーブルの中に、
丸いテーブルが幾つもあったのだけれど、
いつか自分も、こんな丸いテーブルのある生活をしたい、
と、Sister Tessaにもらしたところ、
Oh, Giovanni! I am sure that you will find
your own round table one day!
と、彼女はキッパリと、言ったのでした。
あれ以来、彼女の言葉を信じる、その根拠も知らないまま、
ずっと、変わらずに、自分自身の”丸いテーブル”を
わたし、Giovanniは、探し求めているのです。
丸いテーブルって、何なんだろう?
例えば、相互の利害関係に大きな緊張感を持った国々が、
何かの交渉ごとを行う場合、
丸いテーブルを囲むという光景を、
みなさんは、観た事ないでしょうか?
日本の、上座、下座というような、位置関係による
人間関係のランク付けのようなものって、
世界の様々な文化の中にもあるのではないかと思うのです。
そういうランク付けを、完全にではないにしろ、
かなり、無視することのできる方法が、
丸いテーブルを囲む、ということ。
四角いテーブルだと、どうしても、
『ああん、何で俺はこんな角っこなんだよぉ!』のような、
不公平感が生まれてしまうけれど、
丸いと、何だかそれだけで、円満な感覚を覚えませんかね?
フランス時代、Le Puitsー井戸という意味ーという名前のついた、
可愛い家の管理人をしていたことがあります。
そこは、communauteの宿舎になっていて、
1週間単位で、20人程度の人が宿泊する施設でした。
その家のダイニングテーブルは、大きな木製の丸いテーブルで、
随分古い物のようでした。
その日の宿泊者人数に合わせて、食事前に
テーブルセッティングをするのですが、
20人分をきっちりセットして、
皆が席に着いて食事を始めようとするころに、
飛び入りや、たった今アメリカから到着、南アフリカから到着、
というような人たちがやってきたりして、
慌てて、椅子を足したり、スープ用の皿を取り出したり。
そういう時でも、丸いテーブルであれば、みんなが少しずつ、
自分とテーブルの距離を遠くするようにすれば、
難なくみんなでテーブルを囲む事ができるのでした。
ともに食卓を囲む、という事の大切さを、
現代に生きるわたしたちは、どんどん忘れてしまっていないでしょうか?
個人の意志や、志向が尊重されることは、
それはそれで意義のあることです。
しかし、一つの食卓を囲み、
同じ皿から同じ食べ物を分け合って食する、という、
人間の最もシンプルな、共同体としての行為を、
わたしたちは、急速に失ってきているということに、
危惧を感じる事すら無いのでしょうか?
一つの家族ですら、
親子が別に食事をするとか、兄弟が別の物を食べるとか。
家庭における食卓も、
今や人間社会の最も基本的な共同体ユニットである家族にあっての
役割を果たす事がなくなってしまったのでしょうか?
みんなで、丸いテーブルを囲むということ。
わたし、Giovanniは、これを求めているのです。』
ちょっと若い感じのする、初々しい文章に、
自分ながら、少し照れる気がするのだけれど・・・
実は、ここ数ヶ月、このブログという場所を借りて、
自分は何を伝えたいのだろうか?何を分かってもらいたいのだろうか?
と、言う、大きな疑問にぶつかって、
行き止まりの迷路から、抜け出すことができないでいた。
何か、無理矢理、それらしいことを書こうとすると、
そんな文章は何だかよそよそしくて、
自分ではないような気がしてしまい、
書きかけては、放り出し、しているうちに、
自分の本当のことばを、失ってしまったようにも思えたのだった。
つい今しがた、
明日、仕事が休みだというのを良いことに、
パソコンの前で、ネットサーフィンに興じていたのだが、
ふと思いたって、こんな文字を入れて検索をしてみた。
”Les souers de St. Andre"
これは、ベルギーに本部を置く、女子修道会の名前で、
今、読み返した、昔の日記に登場する、
Sister Tessaが属している修道会なのである。
今までにも、同様に、彼女たちの修道会の名前で、
検索をしたことがあったはずだが、
これという検索の結果が出てきたことはなかったのに、
比較的最近のアップなのだろうか、
今日は、この修道会のwebサイトが紹介されたのだった。
そこには、
彼女たちのvocation、つまり、キリスト教で言うところの”招命”、
修道会の歴史や、現在の活動などが、
フランス語で紹介されていた。
サイトの最初のページに、
15、6名のシスターたちが、家の前で集まったところの
写真が掲載されていた。
懐かしい顔ぶれが何人もいて、嬉しくて目が釘付けになった。
その面々の中に、
別のシスターたちの後ろで、ちょっと隠れるようにして立っている、
Tessaの姿があった。
写真が小さくて、はっきりとは見えないが、
グレーがかった瞳の色が、より薄いグレーに見え、
縮れてフワフワとしていた髪も、
心無しか、グレーがかったように見える。
彼女に最後に会ったのが、12年前。
月日がそれだけ経ったことを物語る写真である。
彼女が、
まだ随分と若かった、わたし、Giovanniに、言ったことば、
『いつかあなたも、
あなた自身の丸いテーブルを見つける日が来るわ』
が、この一枚の写真の中で、
少しはにかんだようにして、それでも、
あの頃と全く変わらない笑顔でいるTessaによって、
改めて、鮮やかに思い出された、今宵。
そして、
わたし、Giovanniが、
このブログを読む全ての人、あなたに、伝えたかったこと、
それが何であるかを思い出した、今宵。
再び、あなたと、
この”丸いテーブル”を囲みたいと思って止まない。
金曜日, 8月 17, 2007
あなたがそこにいるということ
少しずつ、年齢を重ねてくると、
誰かに話したり、伝えたりしたいと思うこと、
ーーこと、と言うよりは、言葉ーーが、
同じこと(言葉)の繰り返しになってくるということに、
ここ最近、気がつき始めている。
あ、また同じ話をしている、とか、
また、同じ言葉を書いている、とか。
それだけ、自分が何を相手に伝えたいのかということが、
はっきりと、明確にされてくることが、
大人になることの一つなのだろうか。
今から書くエピソードも、
もう、15年近く、
繰り返し繰り返し、人に語り伝えてきたものなので、
これを読むあなたも、既に、わたし、Giovanniの口から、
聞いたことがあるかも知れない。
1992年、日本で一年やった仕事を辞めて、
請われるままに、アジアの幾つかの国々を訪問する旅に出た。
インド南部、ケララ州の約30の町や村を、
列車やバスで訪れていた一連の旅程の途中のことだった。
いつものように、時刻表通りに来たことのない汽車に乗り込み、
どこかの町から、どこか別の町へ、移動していた。
窓の外は、南インドらしく、青々とした、瑞々しい風景。
ライスパディと呼ばれる稲田と、
そびえ立つココナツの木々を、眺めながら、
心地よい風を頬に受け、ぼんやりとしていたそのとき、
一人の少年の姿が、目に飛び込んできた。
10歳か、11歳というところだろうか?
インドによく見られる、線路沿いのいくつかの小さな家々。
その中のある家の前に立つその少年は、
背筋を伸ばし、満面の笑顔で、
通り過ぎようとしている列車に向かって、
最敬礼の格好をしていた。
日本でも、幼いこどもが、線路沿いで、
電車に向かって手を振る光景は珍しいものではない。
しかし、その少年の、列車と、
恐らくわたしを含めた列車に乗る乗客とに対するその笑顔は、
今までに見たこともないくらいに、
キラキラと輝いているように見えた。
その少年の姿が、この視界に入っていたのは、
恐らく、ほんの数秒のことで、
彼のことを知る手がかりになるような情報とて、ほとんどないが、
わたしは、こんな想像を巡らしたのだった。
インドの列車は、その当時(今現在どうなっているか知らないが)
まだ、汚水を垂れ流しながら走っていた。
先に述べたように、
その少年が立っていた家がある線路沿いというのは、
貧しい生活地域に属していることが多く、
そこからも、その少年が、決して裕福な家のこどもではないことが、
容易に察せられた。
物質的には恵まれている、例えば、
多くの日本のこどもたちとは違って、
彼の生活の中には、ゲーム機や色とりどりのおもちゃなど何も無く、
恐らく、自分の家の目の前を走る列車は、
数少ない、彼の娯楽だったのでは無いかと思ったのである。
毎日、何本も通過する列車に向かって、
あの最敬礼と笑顔で挨拶することが、
彼の毎日の楽しみだったのではなかっただろうか?
そんな想像を巡らしているうちに、
とっくに、彼が暮らす貧しい家の立つ地域から、
列車はどんどん離れて行ったのだが、
わたしの目には、その少年の姿が焼き付いていて、
消えることがなかったのである。
あれから15年もの歳月が経って、
あの少年も立派に成人しているはずである。
こんなに時を経ていても、
未だに、あの時の少年の姿を思い出すと、
わたし、Giovanniの心の中に、
何か、小さなともしびが、ポッと灯されたような気持ちになる。
空間と時間を超えて、あの時の彼に、今も、
大きな勇気を与えられているような気持ちになるのである。
名前も知らない、恐らく、生きていて再び逢うことも無いだろう、
あなたがそこにいるということ、
それが、わたしに与えてくれる大きな喜び・・・
『あなたがそこにいるということが嬉しい』
この言葉を、色々なシーンで、色々な人たちから、
聞いてきたような気がする。
それらのシーンや、それらの人たちを、
個々に思い出すことは難しいが、
インドを初めとした、アジアの国々を訪れたときも、
12年前の阪神淡路大震災のときにも、
『あなたがそこにいるということが嬉しい』と言われて、
こちらが励ましたり、手助けしたりするつもりだったのに、
そのひとことで、何か、自分の気持ちが、
救われるように感じたことが幾度もあったのを、覚えている。
昨年の今頃、ここで、
わたし、Giovanniが過ごしたフランスの共同体の創始者が、
2年前、予期せぬ突然の死をとげたことについて書いたことがあった。
8月は、6日の広島、9日の長崎への原爆投下の記念と、
15日の終戦の記念、
そして、生涯を人間の和解と平和のために生きたその人の、
生きた証しを記念する日となった16日、と、
思い起こすべき日が幾つもある月となった。
忘れようにも忘れられることなどできない、この16日の日に、
クリスマスや復活祭などの、折々にいつもそうするよう、
フランスの共同体の修道士たちへ、短いメッセージを送ったところ、
わたしが、長く一緒に旅を共にしてきた修道士、Gから、
すぐに短い返信が返ってきた。
最も短く、そして、わたし、Giovanniの心に響くメッセージだった。
『あなたがそこにいることが嬉しい』
日曜日, 8月 05, 2007
夏の花火、と、冬の花火

いつものように自転車で、職場から帰宅していると、
不意に、鮮やかな緑色の光が、視界の遠くに見えた。
あ!花火だ!
と、気がつきながらも、自転車は、その光を発見した場所をピークに、
下り坂に突入し、
それきり、夜空に光る花火は、見えなくなってしまった。
しかしながら、バーン、バーン、ドドーン!という、
花火を打ち上げる音は、はっきりと聞こえており、
何とか、再び、打ち上がる閃光を見ることができる場所は無いかと、
遠くで聞こえる音を頼りに、行く道の方向を見極めていた。
だが、やはり、平坦な低地を進むばかりのこと、
燦然と輝くその光を見つけることはないまま、
バーン、バーン、ドドーン、という音ばかりに、
耳を傾けつつ、また、思い出したことがあった。
フランスに住んでいた間に、
年末年始をロンドンで過ごしたことがあった。
わたし、Giovanniが、
当時働いていた、communaute(共同体)の仕事で、
クリスマス直後から、ロンドン入りをし、
バタバタと慌ただしい数日を過ごしていたのだった。
日本で言う、所謂、大晦日の夜、
年越しのミサに預かっていたときのことだった。
その日の聖書の言葉に耳を傾けた後、
暫くの時間を、沈黙の内に過ごしていた。
バーン、バーン、ドドーン。
外では、行く年を惜しみつつ、来る年を祝う人たちの、
ざわめきと一緒に、
打ち上げ花火が派手に打ち上げられている音が、
鳴り止まなかった。
その激しい音を聞きながら、
わたし、Giovanniは、自分と共にその場でミサに預かっている、
仲間たちを見回していた。
人民革命と呼ばれた、反マルコス運動の最前線で、
人間の盾にもなったフィリピン人や、
大小様々な、紛争や戦争に巻き込まれた経験を持つ、
旧ユーゴスラヴィアを初めとした、旧東ヨーロッパの面々。
そんな彼らの表情を、
わたし、Giovanniが、伺わずにいられなかったのには、
理由があった。
それは、こういうことだった。
途切れることなく、次々と打ち上げられる花火の音が、
わたしには、戦争の銃撃の音に聞こえてならなかったのだ。
彼らが、この花火の音を耳にして、
自分たちを巻き込んだ、紛争や戦争を思い出しはしないだろうか?と、
気になって仕方がなかったのである。
去年の8月6日に、わたし、Giovanniは、
ここで、わたしの叔父、Sについて書いている。
叔父のSは、広島で被爆しており、
奇跡的に生き延びた後、何年もの間、
花火を怖がった、という話を聞いたことがある。
青白く光る花火が、原爆のピカを、そして、
花火が打ち上げられる音が、原爆のドーンを、
思い出させるからだということだった。
同じように、
自分の実体験として、戦火や銃撃を経験してきた仲間たちにとって、
花火の光や音は、どんな風に受け止められているのだろうか、と、
彼らに尋ねてみたくて、仕方がなかったのである。
だが、その反面、
自己の体験として、戦争の銃撃など知らないわたしには、
花火がそれに近いものだと勝手に解釈せざるを得ないだけで、
本当の銃声を知っている彼らにとっては、
花火など、たかだかおもちゃでしか過ぎないのではないか、という知恵も働き、
結局、そんな質問を投げかけることもしないまま、
その夜の、お祭り騒ぎも終ってしまったのだった。
それでも、未だに、
あの時代のあれらの国々で、そして、今も尚、幾つかの国々で続けられる、
戦争の非情な音は、ひょっとすると、
この花火の音に似ているのではないか、と、思うことがある。
その日の帰り道、
次から次へと、打ち上げられる花火に恋いこがれながら、
ふと、そう思ったのだった。
自宅近くへ到着して、
終に、花火はその全貌を再び現し、
線路沿いの道で、
わたし、Giovanniも、
しばし、その美しい彩りに気をとられていた。
水曜日, 7月 11, 2007
雨降る午後に思うこと
から梅雨かと思っていたのに、後半になって
俄然元気を見せている今年の梅雨前線。
おまけに、大型の台風がはるか南方から、
さらに前線を刺激しているとかで、
今日の休みも、どんよりと曇ったり、しょぼしょぼと降ったり。
ここのブログでも、何度も何度も書いているから、
きっとみなさんもご存知だと思うけれど、
わたし、Giovanni、こういう天候には滅法弱いのである。
奈落の底に、ズルズルと引きずり込まれるような、
そんな感覚の内に、いつまでも目覚めなかったりする。
今日も、そんなこんなで、
ほとんど意味の無い、ただ生きているだけ、というような半日を、
ダラダラと過ごしてしまった。
一日が、半分以上も過ぎたところで、俄に、
無駄にしてしまった時間を取り戻そうと、
ばたばた慌てている自分が、ちょっと可笑しい。
仕事がとびきり忙しいのだとか、
身辺に大きな変化があったとか、
そういうのではないのだが、
何か、自分をすんなりと表現することが、
ここ暫く出来なくなっている。
もっと端的に言えば、書けない。書くことができない。
今までだって、大したことを書いていたわけでもないが、
それでも、季節折々に感じたことや、
日々起こる小さな出来事について考えたことを、
素直に、語り、読んでくださるみなさんと、
多からずも分かち合うことができていて、
案外それがまた、自分の毎日の生活の心の糧になっていたのに。
正直な話をすれば、
書くことが出来なくなったのには、理由があった。
ここでは、それに触れることを避けるが、
単純に言えば、あることがきっかけで、
書くのに嫌気がさしていたのだ。
素人の日記ごときで、何を大仰なことかとも思うかも知れないけれど、
素人で、別にこれを生業にしているわけではないからこそ、
こんなささいなことで、嫌気がさして書くことを止めてしまっても、
それが何かに大きく影響を及ぼすわけでもないわけである。
暫くは、キーボードを叩くことすら嫌になっていて、
この”丸いテーブル”の周りに近づくことすらせずに、
うっちゃっていたのだが、
ほとぼりも冷めて、少しの時が流れれば、
やはり、この居心地の良いテーブルをまた、
囲みたいと思うようになったのだった。
いつも、誰かが、わたし、Giovanniと繋がっている。
そして、わたし、Giovanniは、誰かと、
このテーブルを囲みながら、
遠く離れていても、繋がっているのだ、という実感。
それこそが、わたし、Giovanniの
大切にしているcommunionであり、
それだからこそ、自分は生きているのだ、と、確信できる。
雨の降る日は、身体と心を休める日だ、と、
誰かに教えられたような覚えがある。
休みだからと、めいいっぱいの時間を費やしてあれもこれも、
と、いう必要は無いじゃないか。
ポツポツと、地面をたたく雨音を静かに楽しみながら、
日頃、避けて通っている、自分の内面の、
何故? どうして? 何処へ?
心のもっとも深い場所にある、問いかけへの、本当の答えを探す、
そんな一日であっても良いのじゃないかな。
こんな雨の日だったからこそ、
ちょっと、この心を開放して、久しぶりに、
みんなに会いたかった。
こんな雨降る午後だったからこそ。
*雨の後のわが家のインパチェンス
俄然元気を見せている今年の梅雨前線。
おまけに、大型の台風がはるか南方から、
さらに前線を刺激しているとかで、
今日の休みも、どんよりと曇ったり、しょぼしょぼと降ったり。
ここのブログでも、何度も何度も書いているから、
きっとみなさんもご存知だと思うけれど、
わたし、Giovanni、こういう天候には滅法弱いのである。
奈落の底に、ズルズルと引きずり込まれるような、
そんな感覚の内に、いつまでも目覚めなかったりする。
今日も、そんなこんなで、
ほとんど意味の無い、ただ生きているだけ、というような半日を、
ダラダラと過ごしてしまった。
一日が、半分以上も過ぎたところで、俄に、
無駄にしてしまった時間を取り戻そうと、
ばたばた慌てている自分が、ちょっと可笑しい。
仕事がとびきり忙しいのだとか、
身辺に大きな変化があったとか、
そういうのではないのだが、
何か、自分をすんなりと表現することが、
ここ暫く出来なくなっている。
もっと端的に言えば、書けない。書くことができない。
今までだって、大したことを書いていたわけでもないが、
それでも、季節折々に感じたことや、
日々起こる小さな出来事について考えたことを、
素直に、語り、読んでくださるみなさんと、
多からずも分かち合うことができていて、
案外それがまた、自分の毎日の生活の心の糧になっていたのに。
正直な話をすれば、
書くことが出来なくなったのには、理由があった。
ここでは、それに触れることを避けるが、
単純に言えば、あることがきっかけで、
書くのに嫌気がさしていたのだ。
素人の日記ごときで、何を大仰なことかとも思うかも知れないけれど、
素人で、別にこれを生業にしているわけではないからこそ、
こんなささいなことで、嫌気がさして書くことを止めてしまっても、
それが何かに大きく影響を及ぼすわけでもないわけである。
暫くは、キーボードを叩くことすら嫌になっていて、
この”丸いテーブル”の周りに近づくことすらせずに、
うっちゃっていたのだが、
ほとぼりも冷めて、少しの時が流れれば、
やはり、この居心地の良いテーブルをまた、
囲みたいと思うようになったのだった。
いつも、誰かが、わたし、Giovanniと繋がっている。
そして、わたし、Giovanniは、誰かと、
このテーブルを囲みながら、
遠く離れていても、繋がっているのだ、という実感。
それこそが、わたし、Giovanniの
大切にしているcommunionであり、
それだからこそ、自分は生きているのだ、と、確信できる。
雨の降る日は、身体と心を休める日だ、と、
誰かに教えられたような覚えがある。
休みだからと、めいいっぱいの時間を費やしてあれもこれも、
と、いう必要は無いじゃないか。
ポツポツと、地面をたたく雨音を静かに楽しみながら、
日頃、避けて通っている、自分の内面の、
何故? どうして? 何処へ?
心のもっとも深い場所にある、問いかけへの、本当の答えを探す、
そんな一日であっても良いのじゃないかな。
こんな雨の日だったからこそ、
ちょっと、この心を開放して、久しぶりに、
みんなに会いたかった。
こんな雨降る午後だったからこそ。
*雨の後のわが家のインパチェンス
金曜日, 7月 06, 2007
梅雨の晴れ間に
土曜日, 6月 09, 2007
カレンダー
帰宅してポストを開けたら、
ケータリングや、マンションのちらしに埋もれるように、
A4サイズくらいのボール紙でできた封筒が隠れていた。
見覚えのある封筒。
心待ちにしつつも、半ば諦めてもいた、あの封筒だった。
不要なちらしを、そのまま直接ゴミ箱に葬って、
その封筒を大切に小脇に抱え、玄関ドアを開けた。
靴も鞄も、放り出したまま、封筒を開封すると、
ほら、いつもの・・・
今年で何年目になるだろうか?
ニューヨーク在住の友人、K子さんが、
航空郵便でこのカレンダーを届け
てくれるのは?
5年目?いや、もっとかな?
例年、年が改まる前の、前年の年末に届くカレンダーが、
今年は、いつまでも届かず、
K子さん、忙しいみたいだし、忘れられているのかな?と、
もう、大概、諦めていたのであるが、
今こうして手元に届いてみると、やはり、あるべきものが
ここにある、という実感がして、
例え、今年はもう半年が過ぎようとしていても、嬉しい。
いつも、このカレンダーがあるべき場所に、
ぽかんと空いてしまっていた空間に、
カレンダーを収めると、しっくりと落ち着いてくる。
このカレンダーは、アメリカのミシガン州にある、
Saint Gregory's Abbeyという修道院が作製しているもので、
縦の見開きの上部が、修道院の四季折々のスナップ写真、
下部がカレンダーとなっていて、
写真が全てモノクロなのに合わせて全体的にモノトーンに
仕上げてある。
写真は、プロが撮影したキメキメの立派な写真、
というようなのではなくて、
修道院の日常の生活、例えば、修道士たちが掃除をしている様子や、
修道院を訪れている人たちが楽しげに話している姿、など、
どれも、本当に日々の生活風景の一部を、
そのまま切り取ったような、さりげない写真ばかり。
5、6年も、このカレンダーを使っていると、
最初の頃は、まだ若々しい表情をしていた修道士が、
随分、それらしい、渋味のある風貌になってきたなぁ、なんて、
旧い友人にでも会うような気持ちにもなったりする。
このカレンダーには、修道院製のものらしく、
キリスト教で言うところの、『教会暦』が記載されていて、
12月25日がクリスマスというのは周知だが、
移動祝祭日などと言われる、復活祭などが、
今年は何月何日になるのかを知ることができる。
その他、日々の聖人の祝日なども分かるようになっている。
カレンダーを眺めながら、
忘れていた、大切な祝日や、友人の守護聖人の祭日を思い出したり、
クリスマスや、復活祭までの日々を指折り数えたり、
そういうことが、日常の生活の一部になっている
わたし、Giovanniとしては、
このモノクロのカレンダーは、不可欠なものだっただけに、
半ば諦めかけていた今年のカレンダーを、
文字通り、一年の半ばにようやく受け取ることができて、
喜んでいる。
K子さん、ありがとう。
そして、Saint Gregory's Abbeyに神のご加護を!
月曜日, 6月 04, 2007
小鳥のいない生活
長年使っている、ラバーウッドの四角い盆に、
バタを塗って、果物のコンフィチュールを添えたトーストと、濃いめのコーヒーを乗せ、
起きたままの寝床でとる、わが家の朝食。
トーストは、フカフカよりは、カリッと香ばしく焼いたのが好きだが、
そういうよく焼いたトーストは、食べるとパン屑がたくさん落ちる。
パン屑のその大方は、四角い盆で受けるのだが、
サクッとした歯ごたえと、口に広がるバタの塩味とキウィやモモのジャムの甘みが、
口いっぱいに広がると同時に、
羽毛の掛け布団の上は、パン屑が広がって、大変なことになる。
フランスの共同体で生活していたとき、
"Le Puits"という名前(井戸、の意味)の家の管理人を一年位していたことがあった。
そこは、毎週、30人程度のヴィジターが滞在して、
沈黙の生活の中で、修道士のガイダンスの元、
各自が自らの内面的な探求を進めていくための施設である。
その家での昼食と夕食には、何人かの修道士が、当番制で食卓に共につき、
静かな音楽を聞きながら、沈黙の中で食事を摂る。
食事は、修道共同体らしく、とても簡素なものであるが、
フランスだけあって、パンがとても美味しい。
毎食、共同体全体の食事を準備する”Big kitchen"から、
わたし、Giovanniが管理をしていた家用に、
スープの入った大きなポットや、
食後のフルーツとして供される木箱に入った青い林檎と一緒に、
フランスで、所謂、バゲットと呼ばれるような、
棒状のパンが数本あてがわれる。
そのパンを、これもフランスでは当たり前にどこの家庭にでもある、
少しギザギザの付いた専用のパン切りナイフで適当な大きさに切り分け、
いくつかのカゴに盛りつけて、
家の大きな楕円形のダイニングテーブルに並べる。
パンのカゴは、
食事中に、幾度となく楕円のテーブルの周りを行き来する。
豆の煮たのと、チキンのオーヴン焼きを食べてしまって、
一先ず落ち着いたところで、
もう一度、今度はチーズと一緒に食べるために、
何片かカゴに残されたパンが、食卓の周りを囲む人から人の手へと、
手渡されて行く。
(そして大概の場合、この最期の一周りでカゴは空っぽになる)
修道士の、食事への感謝の短い祈りとともに、食事は終わり、
各自が自分の食器やカトラリーを、
食堂の横に設えてある流し場へ運ぶ中、
いつも、その光景に、ふと、感じ入ることがあった。
テーブルの上に、よく見れば、たくさんのパン屑が散らかっていて、
その屑を、ティータオルで拭い去ってしまう人もいたのだが、
修道士の一人、フレール・ヨハネスは、
そのパン屑を、空っぽになったパンカゴに集め、
ダイニングルームから、直接庭に出ることのできる、
素通しのガラスの扉をくぐって庭に出て、
カゴに残ったパン屑もろとも、庭にまくのだった。
フレール・ヨハネスは、スウェーデン人の修道士で、
寡黙で、いつも飄々としており、
茶色い毛糸のベストを着用したその素朴な風貌が、どことなく、
洗礼者ヨハネを描いた絵のようだった。
その彼が、庭でパン屑をまく姿は、
また、12世紀のイタリアで、清貧の精神を唱え
フランシスコ会を創立した、聖人、
フランチェスコにも重なって見えた。
聖フランチェスコは、太陽を『兄弟』、月を『姉妹』と、呼び、
『西洋人には珍しいほど、自然と一体化した聖人として、
国や教派を超えて世界中の人から愛されている。
小鳥へ向かって説教したという伝説も大変に有名であり、
教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「自然環境の保護の聖人」とした。』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
と、あるように、小鳥たちをも、普遍の愛情の対象として、
愛おしんだ人であった。
今年の正月に、両親の住む家を訪ねた。
庭の見える部屋から外を眺めていたら、
雀たちが庭の隅に集まって、何かをついばんでいた。
父に聞いたところ、小鳥用の餌を、ときどきまいてやっているというのだ。
冬の冷たい空気に凍えないように、
その羽毛をめいいっぱいふくらませた雀らの姿に、
父も、母も、そしてわたし、Giovanniも、
目を細め、いつまでも飽きることがなかった。
そして、いよいよ仕事を引退して、3月に両親が終の住処として戻った、
神戸のマンションの6階のベランダにも、
時おり、小さい鳥たちが、やってくる姿を見かけるようだ。
わたし、Giovanniの生活には、
残念ながら、こんな小鳥たちは、ほとんど現れない。
せいぜい、早い朝に窓を開ければ、
どこかで何やら楽しげな、チュンチュンという彼らのおしゃべりが、
聞こえるくらいである。
羽毛布団に散らかったパン屑も、四角い盆の上のパン屑も、
それをついばみにやって来る小鳥もいないので、
屑かご行きになるばかりである。

そんな、
小鳥のいない生活は、何か、少し寂しくもある。
バタを塗って、果物のコンフィチュールを添えたトーストと、濃いめのコーヒーを乗せ、
起きたままの寝床でとる、わが家の朝食。
トーストは、フカフカよりは、カリッと香ばしく焼いたのが好きだが、
そういうよく焼いたトーストは、食べるとパン屑がたくさん落ちる。
パン屑のその大方は、四角い盆で受けるのだが、
サクッとした歯ごたえと、口に広がるバタの塩味とキウィやモモのジャムの甘みが、
口いっぱいに広がると同時に、
羽毛の掛け布団の上は、パン屑が広がって、大変なことになる。
フランスの共同体で生活していたとき、
"Le Puits"という名前(井戸、の意味)の家の管理人を一年位していたことがあった。
そこは、毎週、30人程度のヴィジターが滞在して、
沈黙の生活の中で、修道士のガイダンスの元、
各自が自らの内面的な探求を進めていくための施設である。
その家での昼食と夕食には、何人かの修道士が、当番制で食卓に共につき、
静かな音楽を聞きながら、沈黙の中で食事を摂る。
食事は、修道共同体らしく、とても簡素なものであるが、
フランスだけあって、パンがとても美味しい。
毎食、共同体全体の食事を準備する”Big kitchen"から、
わたし、Giovanniが管理をしていた家用に、
スープの入った大きなポットや、
食後のフルーツとして供される木箱に入った青い林檎と一緒に、
フランスで、所謂、バゲットと呼ばれるような、
棒状のパンが数本あてがわれる。
そのパンを、これもフランスでは当たり前にどこの家庭にでもある、
少しギザギザの付いた専用のパン切りナイフで適当な大きさに切り分け、
いくつかのカゴに盛りつけて、
家の大きな楕円形のダイニングテーブルに並べる。
パンのカゴは、
食事中に、幾度となく楕円のテーブルの周りを行き来する。
豆の煮たのと、チキンのオーヴン焼きを食べてしまって、
一先ず落ち着いたところで、
もう一度、今度はチーズと一緒に食べるために、
何片かカゴに残されたパンが、食卓の周りを囲む人から人の手へと、
手渡されて行く。
(そして大概の場合、この最期の一周りでカゴは空っぽになる)
修道士の、食事への感謝の短い祈りとともに、食事は終わり、
各自が自分の食器やカトラリーを、
食堂の横に設えてある流し場へ運ぶ中、
いつも、その光景に、ふと、感じ入ることがあった。
テーブルの上に、よく見れば、たくさんのパン屑が散らかっていて、
その屑を、ティータオルで拭い去ってしまう人もいたのだが、
修道士の一人、フレール・ヨハネスは、
そのパン屑を、空っぽになったパンカゴに集め、
ダイニングルームから、直接庭に出ることのできる、
素通しのガラスの扉をくぐって庭に出て、
カゴに残ったパン屑もろとも、庭にまくのだった。
フレール・ヨハネスは、スウェーデン人の修道士で、
寡黙で、いつも飄々としており、
茶色い毛糸のベストを着用したその素朴な風貌が、どことなく、
洗礼者ヨハネを描いた絵のようだった。
その彼が、庭でパン屑をまく姿は、
また、12世紀のイタリアで、清貧の精神を唱え
フランシスコ会を創立した、聖人、
フランチェスコにも重なって見えた。
聖フランチェスコは、太陽を『兄弟』、月を『姉妹』と、呼び、
『西洋人には珍しいほど、自然と一体化した聖人として、
国や教派を超えて世界中の人から愛されている。
小鳥へ向かって説教したという伝説も大変に有名であり、
教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「自然環境の保護の聖人」とした。』
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
と、あるように、小鳥たちをも、普遍の愛情の対象として、
愛おしんだ人であった。
今年の正月に、両親の住む家を訪ねた。
庭の見える部屋から外を眺めていたら、
雀たちが庭の隅に集まって、何かをついばんでいた。
父に聞いたところ、小鳥用の餌を、ときどきまいてやっているというのだ。
冬の冷たい空気に凍えないように、
その羽毛をめいいっぱいふくらませた雀らの姿に、
父も、母も、そしてわたし、Giovanniも、
目を細め、いつまでも飽きることがなかった。
そして、いよいよ仕事を引退して、3月に両親が終の住処として戻った、
神戸のマンションの6階のベランダにも、
時おり、小さい鳥たちが、やってくる姿を見かけるようだ。
わたし、Giovanniの生活には、
残念ながら、こんな小鳥たちは、ほとんど現れない。
せいぜい、早い朝に窓を開ければ、
どこかで何やら楽しげな、チュンチュンという彼らのおしゃべりが、
聞こえるくらいである。
羽毛布団に散らかったパン屑も、四角い盆の上のパン屑も、
それをついばみにやって来る小鳥もいないので、
屑かご行きになるばかりである。
そんな、
小鳥のいない生活は、何か、少し寂しくもある。
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