水曜日, 5月 31, 2006

対岸の火事




長い人生(?)の中で、
実際に火事の現場を見たことは、何度もはない。
かすかな記憶を辿れば、小学生の頃、
近所の銭湯が出火したのを、
野次馬丸出しで、見に行った事があった。
(と、思うのだが、定かではない)

もちろん、その火事を、
自分でどうこうできるはずもなく、
消防隊が消火している様子を、
はらはらしながら傍観していることしか、
我々には出来ない。

この数日間で、インドネシアでの地震のことを
2度、ここに書いた。
死者の数も、どんどん増えているようで、
遠く(地球的視野で言えば近いのだが)離れた
ここからでは、何の手も施す事ができず、
悔しい気持ちばかりが募る。
対岸の火事を、ただ、傍観しているしかない。

この地震に関することをここに書いたことで、
実は、思っている事がある。

このブログも、案外、色々な人が読んでくださっていて、
コメントも、ちらほらとではあるが、
日々、何かしら、いただくのだが、
今のところ、
今回の地震について、どなたからも、何も言われていない。
そう言えば、職場の、日常の会話の中でも、
誰もこのことについて言及していなかった。

コメントをするとしても、
または口に出して話してみたとしても、
ある種の虚しさばかりが蓄積されるばかりなのかも知れないし、
何を言ってみたところで、何が変わる訳でもない、と、
みな思っているのだろうか?

或は、単なる無関心で、まさに、『対岸の火事』。
火の粉も飛んで来ず、延焼の心配も無いなら、
自分たちには、何ら関わりのないこと、と、
思っているのだろうか?

今回の地震のことは、
”Around the Round Table - intercontinental"にも、
短く紹介したのだが、
実は、そちらを通じては、
即座に何人からかのメールを受け取った。
イギリス、フランス、シンガポールなどの友人たちからだ。

日本人だから、そうでないから、
という比較論は、間違っているとは思うが、
往々にして、島国にいる日本人は、
世界のどこで何が起きても、対岸の火事として、
眺めていることが、多いように思う。

周わりを、ぐるりと海に囲まれているこの国は、
まさに、ここより外の国や地域は、対岸であるから、
仕方の無いことなのだろうか?

そう、言っている、わたし、Giovanniとて、同様で、
今回は、自分に馴染みのあるインドネシアであったが、
これが、モルジブだったりベネズエラだったら、
ここまでの思いはしないまま、
遠くで燃える火事の火を、ちらっと見るだけで、
おしまいだったかも知れない。

思いを届かせる、という、非科学的な方法を、
わたし、Giovanniは、信じている。

以前、スリランカを訪問したことがある。
民族間の紛争がとても激しい時期で、
(今もそれは続いているが)
銃を抱えた兵士が、至る所におり、
わたしが滞在していたわずか10日ほどの間にも、
政治家が暗殺される、というような
緊迫した状況下だった。

学生たちのグループと、話す機会があって、
そこで、
『この国のこういう状況を見て、あなたの意見を
聞かせてください。どうしたら、こういう状況から
我々は脱することができるのでしょうか?』と、
質問をされた。

わたし、Giovanniも、政治に明るいわけではなく、
また、彼らの態度が熱心であるだけに、
不用意な発言はできないと思った。

『政治的な発言は、わたしにはできない。
わたしに言えるのは、目に見えない力を
信じる事が大切なのではないか、ということだ。』
苦し紛れ半分に、このように答えたのを覚えている。

彼らの反応は、非常に冷ややかで、
それで何の解決になるというのか?と、
批難する声も、上がったが、
それは当然と言えば当然だったろう。

わたしがそこで言いたかったのは、
人間として、できる色々な手をつくした上で、
後は、何か見えない力に委ねるしかない、
ということだった。
そういう、
何か気持ちのよりどころのような場所がないと、
行き詰まってしまって、
ただ、しんどいだけなのではないか、と、
言いたかったのだ。

彼らとのディスカッションの最後に、
わたしは、一つ、約束をした事がある。

『今日、みなさんと出会った事、
スリランカという国にあなたたちがいて、
日々の緊迫の中で、希望を捨てずに生き続けようと
しているということ。
わたしは、生涯、このことを忘れずに覚えている。
いつも、わたしの思いの中に、
あなたたちは存在し続けるでしょう。』

それまで、若干、
期待はずれに白けた顔をしていた学生たちが、
わたしが宣言した約束を聞いて、
俄に表情を変え、口々に、
『わたしたちも、
あなたとの今日の出会いを忘れない!
あなたも、いつまでもわたしたちの思いの中に
いるでしょう。』と、言ってれた。

そして、現に、あれからの長い歳月で、
もちろん、顔も名前も、とうの昔に忘れてしまったが、
約束通り、彼らは今も、わたしの思いの内にいる。
と、同時に、
彼らの言葉に、彼らとの約束の言葉に、
支えられながら、今を生きている自分がいる。

災害や、思いもかけなかった事故や、
或は、戦争で、
絶望のどん底に突き落とされた人たちが、
何を待ち望んでいるだろうか、と、考えるとき、
それは、救助の手であったり、温かい食事だったり、
政治的和解だったりするかも知れない。

または、もっと身近な事を考えるとき、
身よりもなく、孤独の中で寂しく生きる高齢者や、
親に虐待を受け、息を殺しながら日々を送るこどもたちが、
何を待っているだろうか?
その答えを見いだそうとするとき、
わたし、Giovanniは、こう考える。

そういう状況にある人たちが、望み、待っているのは、
単なる物資や、形式だけではなく
(それらもまたもちろん重要であるが)
自分たちは、仲間や家族や、社会、世界から、
決して忘れられてはいない、という
確信ではないかと思う。

思いを届ける、気持ちを送る、という行為。
それによって何かが劇的に変わるとか、
全てが元に戻る、というのではないのだが、
そういう目に見えない力が、
実は、人の心に働きかけるのではないか、と、
わたし、Giovanniは、考える。

幸いな事に、わたしには、
最後に会ってから、何十年が経っても、
今も尚、見えない何かによって、
強く繋がっている、友人たち、仲間たちが、
世界の至る所にいる。
わたしのことを、きっと忘れないでいてくれる、
彼らの存在にわたしは、生かされているのだ。

対岸の火事を、ここから消す事はできない。
だが、
わたしは、あなたたちと一緒にいる、
というこの思いを、届けることは、
さほど、難しくはない。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

島国にいる日本人が、世界で起きる出来事について無関心でいるのは、「まさに島国だから」という考えは少し違うと思われる。
私が思うに、それはGiovanniさんの周りにいる人達の質(と言っては語弊があるかもしれないが)によるものではないだろうか。
例えば、島国でないアメリカの人達は、インドネシアで起きた地震について、日本人以上に関心があると言えるだろうか。(もちろん、それを比較する術はないが)
人の関心事など、人それぞれ。
世界に興味のある人は、それなりに今回の地震について思いをめぐらすであろう。逆に、ほかの事に関心を持つ人は、例えフランス人だろうと、今回の地震に興味をあまり持たないであろう。島国である事など、理由にならない。
Giovanniさんの近くにいる人達のなかで、インドネシアの地震に関心を持ち、Giovanniさんにコメントを返したのが、たまたま外国人のご友人だけだったのではないだろうか?
逆に「島国だから」と言えるのは、外交や戦争など、「国と国の関係」においてだと私は思う。
Giovanniさんの言おうとしていた事に対して、私の解釈が違っていたら、ごめんなさい。

匿名 さんのコメント...

だいぶご無沙汰しています。
あーさーと名乗っておきます。
優待チケットありがとうございました。
ちゃんと利用させて頂きました。

私は海外へ行ったことがないのですが、ふと思い出したことがありました。
小さい頃から実家の近所に住んでいた親戚のおばあちゃん(母の叔父の奥さんのお母さんで血は繋がっていないけど小さい時からよく遊びに行き仲良しだった)が亡くなった時、私は大学生で東京におり、忌引が認められるのは2親等まで、と言われ学校が休めず、帰る資金もなく、お葬式にも出ることが出来ず、こんな時に私は何をやっているんだ!なんで私は今ここにいるんだ!と悲しくなったことがありました。

関係無いかもしれませんが、なんとなく距離のもどかしさ、みたいなものを感じた出来事でした。
たしか、日航機墜落事故の被害者家族の方がニュースで言っていた言葉で「大事なのは忘れないでいること」とおっしゃっていました。
忘れないで思うこと、も大事なことなのかな、と。

最近はmixiにハマっております。
機会があればぜひにも!
そして、飲みましょう!

匿名 さんのコメント...

ぴしゃりと言ってのけました。
対岸の火事。
私は実際、あんまりよくわかってなかった。
バリ島津波の時もわかってなかった。
というか、すぐ忘れてしまう。

Gさんの文章が十分ショックです。

Giovanni さんのコメント...

anonymous さん
コメントありがとう。
おっしゃる通りだと思うのです。
対岸の火事、という題名に、拘って書いてたら、
こういう展開になった、という言い訳です。

じゅっぱひとからげ的に、日本はこうだ、
日本人はこうだ、と言うつもりは
無いのですが、
ニュアンスとして、得てして日本は、
というくらいの意識は、しつつ書いたかも
知れませんね。

風土が育てる文化、ということについては、
若干の思いがあります。
隣接する国の多い地域の人たちは、
交渉術に長けている、とか。
もちろん、これも、いわゆる、
得てして、という範疇において、という意味ですが。

これを言うと、ある種のネタばらしになるけれど、
むしろ、自分がこういうことを書いたことによって、
anonymousさんのような人の、
声というか、見解を、引き出せるかな?
という主旨はあったんです。
一体、みんなは、今度のようなことを、
どのように感じているのか、ということ知りたかった
わけです。

ただ、残念ながら、インドネシアでの地震
そのものについてのコメントは、
やはり、まだ聞き出せていない、というのが
現実です。

これに懲りずに、今後も、是非
ブログをお読みくだされば、嬉しいです!

匿名 さんのコメント...

匿名でコメントしてしまったのは、私、にゃがです。
匿名にするつもりは無かったのですが、コメントを載せるのにてこずっていたうちに、匿名のまま載せてしまったようです。匿名でこんなコメントを載せたことが卑怯(後ろめたさ?適切な日本語が出てこない。。)を感じたので、再びコメントしたいと思います。

今回のインドネシア地震について、私個人が感じたこと。
日本は地震国であり、特に先の阪神淡路大震災では、多くの教訓を得た。今回のような海外の震災でも、私たちが得た教訓を生かすべきだと思う。すでに日本から医師団などが派遣されているが、被災後に何が必要なのか(物質的なものや精神的なものを含め)を特に予想できる私たちがこれからも全面的に被災者たちを支援していかなくてはならないと思う。
これは、日本という国家・支援団体が取るべき行動。

私個人が感じたこと。
特に海外で起きた災害に、私個人としてはとても無力だ。すぐに現地に行って、被災者を支援できるわけでもなく、かといってハリウッド俳優のように多額の支援金を送ることも出来ない。私のようなものに出来ることは、小額ながら、募金と言う形で支援することだ。
それでも。現地で何が起きているのかを把握することは出来る。そして、それを忘れないことはできる。多くの命が失われたこと。多くの大事な物が壊れたこと。大切な人を失った人が大勢いること。それを忘れず、いつか彼らと出会えた時に、それを分かち合い、共に語れればいいのではないかと思う。

Giovanni さんのコメント...

『現地で何が起きているのかを把握することは出来る。そして、それを忘れないことはできる。多くの命が失われたこと。多くの大事な物が壊れたこと。大切な人を失った人が大勢いること。それを忘れず、いつか彼らと出会えた時に、それを分かち合い、共に語れればいいのではないかと思う。』

にゃがさん

でしたか!

あなたが書いていること、それで良いのだと、
わたし、Giovanniは思うのです。

実際の活動を起こすという援助、
募金などの経済的援助でしか、
できることが無い、というのならば、
こういう状況にあって、
じゃあ、体を動かす事すら出来ない人や、
自分たちも、貧困に喘いでいるような状態に
ある人たちには、
彼らと連帯する手だては無いのか?ということに
なると思うのです。

そういう第3、第4の選択肢があって、
良いのだと思います。