土曜日, 4月 08, 2006

何が、不幸かということ

あまりにも、有名(なのか?)なことだが、
わたし、Giovanniが、スイマー(素人)になったのは、
そもそも、左脚の膝の靭帯を損傷するというケガの、
功名なのである。

ケガそのものは、ある種の不幸ではあったが、
その結果、生まれたものは、
むしろ、新たな喜び、幸せであった。

何が不幸なのか?
そして、何が幸せなのか、と、
判断をするタイミング。
それは、いつだろう?

膝が反対に曲がったかと思うような、
痛ててて、な怪我をしたその瞬間に、
まさか、
あぁ、幸せ!とは考えない。
でも、確実に、数ヶ月後には、
幸せだなぁ、と思っていた。

全ての答えは、後で分かる。

インド、コチンの空港で、
イタリアからの訪問者を乗せた飛行機が、
数時間も遅れており、
所在なく、いつ到着するとも分からない
いら立ちを覚えながら、
うす青い空をぼんやり眺めていたことがあった。

同様に、客人や友人を待つ群れの中に、
3人の、修道服をまとったシスターたちがいた。

その内の一人は、年配の、明らかにイタリア人の
シスターだった。
(後で分かったが、管区長という役割に就いている
シスターだった)

お互い、ヒマを持て余していたこともあり、
ぽつぽつと言葉を交わすようになり、

一体、いつ到着するのでしょうね、
という話題で、
ひとしきり花が咲いた後、
彼女が、こう言った。

『こうして、長々と、待ちくたびれたことにも、
そして、こうしてあなたとここで出会ったことにも、
必ず理由があるのです。
ただ、その理由が分かるのは、ずっと後になってから。
わたしたちが、みな、楽園に招かれたとき、
全てのことの理由が明らかになるのです。』

今、自分の身の上に起きていることが、
たとえ、今は、身に降り掛かった災難のように
感じるとしても、
後に、それが、自分にとってむしろ、
大きな幸せであったのだ、と、思うときがくる。
それは、天国に行ったときだ、ということなのである。

楽園、天国、というキリスト教的な要素は、
ともかくとしても、
いつか、全ての事の理由が明らかになる、
という考え方は、
分からなくもないのでは?
運命、というように捉えてみたり、
偶然という必然、という哲学で理解してみたり。



夕べ、自転車での帰宅中に、ぼんやりしていて、
何度も、危ない事になりそうになった。
気がついたら、壁に激突しそうになり、
大きく転倒しそうになった体を、
慌ててブレーキをかけ、
何とか支えようとし、転倒を免れた。

どうも、そのとき、
腕をくじいたようである。
今朝から、左腕のあらゆる箇所が、
痛い。

あぁ、ついてない。

と、思いつつも、この痛みにも、
何かの理由があるに違いなく、
きっと、楽園へ辿り着いたとき、
天使たちに、その理由を告げられるのだろう。

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