
今日は、Palm Sunday。
日本語では、棕櫚の日と言うのかな。
毎週、出かける四ッ谷の教会でも、
入り口の所に、シュロの枝が山積みにされており、
みんな、手に手に、枝を持ち入堂。
この日は、キリスト教の暦で言う、
受難週と呼ばれる週の、最初の日。
この1週間は、キリスト教会では、
実は、クリスマスよりも大切な週であったりする。
ちなみに、来週の日曜日が、
イースター。
この時期、
もう、毎年のように、改めて考えさせられるのが
『和解する』ということ。
そして、このことを考えると、
思い出す、ある人のこと。
その人と、あるプロジェクトの相談で、
初めて出会ったのは、今から15.6年も前のこと。
よくできる人で、イニシアチブをとって、
どんどん、前へ進んで行くタイプの人だった。
何がどう、ということではなかったのだけれど、
何となく、馬が合わないというか、
歩幅が合わなかった、その人とは。
特に利害関係が、その人との間に、
あったわけでもなかったのだが、
何か、負けたような、何か、自分の益を、
奪われたような、そんな気持ちにさせられていた。
プロジェクトの完結と同時に、
その人とは、もう合う事もなくなり、
自分が抱いていた、その人に対する憎悪や嫌悪すら、
記憶の彼方に、いつの間にか追いやられていった。
それから、10年以上もたった、ある時、
ある場所で、大学の教授たち数名と、
歓談していた際、
不意に、聞き覚えのある名前を耳にして、
どきりとした。
その名前こそ、自分の記憶の彼方に追いやっていた、
件の名前だった。
彼らの会話の中で、語られる彼の名前。
そして、彼にまつわる出来事を、
過去形で語る彼ら。
その会話によると、彼が、
末期癌で亡くなったというのだ。
全身に拡った悪性細胞に蝕まれた身体は、
否応無しに、彼に激痛を与え、
最期の時、彼は一人がけソファに腰掛け、
両手を大きく開き、天を仰いで息を
ひきとったそうだ。
その話を聞きながら、
まるで無防備なよこつらを殴打されたような
気持ちになった。
彼と、和解することのないまま、
彼が、この世を去ったということに、
後悔の念が、自分の全身を覆った。
むろん、彼に対して抱いていた憎悪も嫌悪も、
彼自身は知らなかったし、
あくまでも、こちらのことだったのだが、例え、
面と向かい口に出して言う事はなかったとしても、
せめて、
『あなたと、和解させてください』と、
彼の心に、自分の心を伝えようとすれば良かった、
そう思って、悔しさが募ったのだった。
『和解すること』
それは、相手が和解しよう、と、自分の所へ来るのを
待つ事ではない。
まず、自ら立ち上がり、
閉め切った部屋の扉を開けて外へ出て、
仮に夜中であっても、
その人の元へ駆けて行く。
『あなたと、和解させてください』
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