金曜日, 6月 30, 2006

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー

M子叔母













今回の旅の、そもそものきっかけは、
M子叔母から、わたし、Giovanniの母への誘いから始まった。

M子叔母は、母の一番上の兄の奥さんで、
30年近くも前に、夫(つまり母の兄)を亡くした後、
自分の健康状態のこともあり、
早々に、海岸沿いにある老人ホームに入居して、
悠々と暮らしておられる。

長女次女はとうに結婚し、
末っ子である長男のGちゃんの結婚はどうなるのかしら?
と、やきもきもしつつ(恐らく)
まぁ、自分の事は自分で考えてるでしょうね、
と、持ち前の大らかな心で構えておられたのだと思う。

Gちゃんは、もう20年近くも前に、仕事を辞して、
学生時代から好きで通っていた西表島に、本格的に移住し、
環境庁のイリオモテヤマネコの保護の仕事などを経た後、
今は、西表島エコツーリズムセンターで働いている。

そのGちゃんが、いよいよ結婚することになり、
しかも、赤ちゃんも授かったというのを聞いたのは
いつだっただろうか?
十数年も会っていない、南の果ての島にいる従兄弟のこと、
と、何かお伽噺でも聞くように、
ぼんやりと母からその報告を聞いたと覚えている。

そんなお伽噺が、突然、非常な現実味を帯びてきた。
Gちゃんの奥さんになる、Mちゃんの東京の実家でのお産の後、
母子が西表島に帰ったら、
M子叔母が赤ちゃんの様子を見に行く事になり、
ちょうど夏の始まりの頃で、
サガリバナをはじめ、色々な花が美しく咲く時期と
重なるだろうから、と、母が誘いに乗り、
わたし、Giovanniも、
二人のオバさんたちのエスコート役として、
同行することになったのだ。

わたし、Giovanniも、早々から夏休みの申請を出し、
久々のちょっと長めの休暇をいただいて、
出発の日を、心待ちにしながら、最後の数日を過ごしたのだった。

関西空港から直行便で向かう母とは、
石垣島で落ち合うことになり、
わたし、Giovanniは、M子叔母と羽田空港で待ち合わせをした。
実は、3年前の冬に、M子叔母と母は、既に叔母の長女と3人で
西表島へ旅をしており、
その時は、母も羽田から飛んだこともあって、
わたしも空港へ見送りに行っている。

M子叔母とは、その時に、
やはり20年振り(祖母の葬儀のときだったか)に再会しており、
その時も、心密かに、随分お婆さんになられたと、呟いたのだったが、
今回は、その時からやはり、3歳分、
きちんと年輪を重ねられた印象だった。

さて、こんなお婆さんと、石垣へ到着するまでの数時間、
どうやって過ごすのか、と、心配したのだったが、
エアクラフトのシートにゆったりと腰掛け、
お話し好きな叔母の語る、様々な話に耳を傾けると、面白く、
いつまでも聞き入ってしまった。

GちゃんとMちゃんの馴れ初めを始め、
海外留学生を支援する財団で働く、長女U子ちゃんのこと、
捨てられた犬や猫を保護して里親を見つける仕事を
全くのヴォランティアでやっている次女N子ちゃんのこと、と、
家族の事を話される叔母が、
三人三様の自分の子どもたちの生き方を、
十分に理解され、激励したり、影でそっと支えたりされている事が
しっかりとした、叔母なりのヴィッジョンの中で、
明確に語られていた。

M子叔母は、
鳥取の旧い商家の長男である叔父に嫁いだのだが、
叔父は、自分が長男であるからという理由で、
実家の家業を継がなくてはならないという人生を拒み、
長年、銀行に勤務をされた人である。

昔の事なので、わたし、Giovanniも、
よくは知らないのであるが、
叔母の口ぶりからすると、叔母自身が
義理の両親と同居していた時代があったのだろうか?

あなたのおばあちゃんは、こうだった、あぁだった、という
昔の話の中に、わたしの祖母の事が幾度となく登場した。
祖母と叔母が、いわゆる世間で取りざたされるようなタイプの、
姑と嫁の間柄であったのかどうかは、知る由も無いが、
血のつながりはない祖母と、叔母自身の姿を、
重ねながら話をされることも、一度や二度ではなかった。
わたしのこういうところは、おばあちゃんに似たのかも知れないわね、
おばあちゃんも、こうして脚を投げ出して、
痛い痛いと、さすっておられたわねぇ、などと言われる。
叔母にとっては、自分が歳を重ねて行く中で、
高齢者としての一つのモデルが、祖母であるのは間違い無く、
たとえ、姑と嫁という関係において二人の間に何かあったにしても、
最期まで少女のように、また、歌人らしく生きた祖母の生き方に、
倣っていきたいと、考えておられるのではないかと思う。

M子叔母は旅の間中、何度も、長く生き過ぎた、と、
笑いながら言っておられた。
それでも、新しく買ってもらった、携帯電話とデジカメと、
悪戦苦闘しながら、
ゆるやかに、ゆっくりとではありながらも、
さらに、先へと進む事を止めず、歩き続けられておられる。

東京を離れること、はるか遠い、西表島への旅は、
意外にも、
自分に近しい人たちと、改めて出会う旅になった。










写真は、
サガリバナの木を眺めるM子叔母

次回は、Gちゃん。

いのちのせんたく ー旅とは、どこかへ行くことではなく、 誰かに会うということであるー













昔は、Giovanni=旅人、という公式が
当たり前だったのだが、
ここ、10年近く、旅らしい旅を、
ほとんどしていなかったことに気づかされた。

以前、旅が生活だった頃、
訪れた国は30カ国に迫り、
日々、列車や長距離バスに揺られながら、
西へ、東へ、北へ、そして、南へと、
移動する日々だった。

そういう旅は、決して、いわゆる世間で言う、
観光旅行、というのではなく、
何か、名所旧跡などを訪れることを、
目的としていたわけではない。
(結果的にそういう場所を訪れる事は
もちろん、あったが)

わたし、Giovanniにとって、
旅とは、
どこかへ行く、ことではなく、
誰かに会う、ということであるのだ。

それは、わたしが行く事を待っている人を
訪れるだけではなく、
わたしの未知な、そしてわたしを知らない
誰かを訪れることでもある。

今回の、西表島への旅は、
まさに、誰かに会う旅であった。
もちろん、西表島という場所を訪ねた事に
大きな意味があったのであるが、
それは、人と出会うことによって、
より意味のあるものとなったと言えよう。

10年振りの、今回の旅は、
『いのちのせんたく』の旅でもあった。

5日以上の休みを取った事がないと言うと、
ヨーロッパの友人たちは
まさに、腰を抜かして驚くのだが、
この10年、ずーっと、働き続けてきて、
少し疲れた心を、
十分にリフレッシュさせて
余りあるほどであった。

今回の旅については、
この旅で会った人について紹介しながら、
じっくり、書き記したいと思う。












次回は、M子叔母について。

日曜日, 6月 25, 2006

飛行機、南へ

Giovanni旅シリーズ、待望の第2弾!


明日朝、飛行機で南の島へ。
グアム?ハワイ?
Non! Non! Non!

国内でこんなに遠くまで行くの、
初めてで、
感覚としては、外国へ行く気分。

おばさん(おばあさん?)を二人
連れて行くので、
珍道中になること、請け合うが、
体も心も、ゆるーくして、
のんびりしてこようと思う。

来週末まで、さようなら!
行ってきます!

木曜日, 6月 22, 2006

3mm

わたし、Giovanniをよく知る人たちは、
わたしが、月に1度は必ず髪を切りに行くということを
周知している。

本当の事を言うと、或は、欲を言えば、
月に2回は切りたいのだ、髪を。
ここ数年、比較的短いヘアースタイルなので、
少し伸びてくると、
鏡の中の自分の姿に、がっかりしたりするのだ。

比較的短い、と、書いたが、
現在の短さは、数年前から、少しずつ、少しずつ、
短くしていった結果であり、
数年前の短さと、現在の短さを比べれば、
圧倒的に、現在のが短いのである。

この10年、同じ理容室で髪を切り続けている。
切ってくれる担当君は、何人か替わったけれど、
その理容室が大好きだ。(B&N下北沢店)

いわゆる、町の床屋さん、とは、
若干、趣きが違っていて、
一松模様の床のタイルと、ガラスケースにたくさん
飾られている、楽しい面々たち。
他人に聞かれると、『おっされー、な床屋』と、
説明するようにしている。

数年かけて、徐々に短くなりつつ
現在のヘアースタイル。
この際だから、ご覧いただこう。


(この画像に似ている人を知ってる人もいるようだが、
わたしは、あくまでも、Giovanniですから・・・)



限りなく、坊主に近くなってきてはいるのだが、
実は、わたし、Giovanni、絶壁頭なのだ。
よって、坊主にすると、後頭部の不細工さが、
バレバレになる。
なので、サイドやおでこの上あたりまでは、
3mmなのだが、
後ろは、あたかも後頭部があるかのような、
カモフラージュの意味もあって、
少し長さを残している。
その関係もあり、頭頂部も、やや長さがある。

でも、
本当は、”全体3mm”になりたかった。

3mmは、憧れ!
3mm、万歳!である。

仕方無い、シリコン入れるか?
後頭部に。

月曜日, 6月 19, 2006

ペギー小淵沢の演歌歌詞(ス)解読講座 前半

みなさん、あたくすが、ペギー小淵沢でございます。

あたくすは、普段は、福島(スマ)に住んでるんで
ございますが、
こうすて、月に2、3回くらっいは、
東京に寄越さすてもらってます。

こうすて、と言いますたのは、
こちらの区民会館の、カルチャー教室(スツ)で、
この、『ペギー小淵沢の演歌歌詞(ス)解読講座』
というのに、よんでいただいているというわけなんです。

あぁ、このペギー小淵沢という名前ですけど、
あたすの生まれた村が、小淵沢というだけのことですて。
ちなみに、ペギーのほうは、
うちの旦那様、いやいや、主人(スズン)のことですけど、
うちのダーリンとは、子どものときから知(ス)った仲で、若い頃、
『おめぇのその可愛いえくぼ、ペギー葉山みてぇだぁ』ってって、
口説かれたんです。

まぁ、そんなこんなで、
東京に出て来たりすることになったもんだから、
芸名ってんですかね、
ペギー小淵沢ってのは、どうかってことになったわけですて。

まぁ、わたすのことは、どうでもいいんです。
今日は、演歌歌詞(ス)解読講座ということです。

えぇ、さて、
演歌の歌詞(ス)と、一口に申すますても、
これは、これは、色々と、複雑に分類することも
できるのですが、
今日は、そのお話すをすているヒマはありません。

早速ですが、
今日のテーマ曲について、
解説を始(ズ)めたいと思います。

今日のテーマ曲は、『雨の慕情(ズュウ)』
この曲は、昭和55(ゴズーゴ)年、 阿久 悠 作詞(ス)
浜 圭介 作曲 で、
歌うは、演歌界のグランドホステス、八代(スロ)亜紀。
という、名曲中の名曲でございます。
















ご存ずのように、
八代亜紀さんは、熊本生まれ。
わたすとは、何の縁もゆかりもないのだけれど、
なぁんか、心が通ずるというのか、
親(スン)近感が湧くのは、何でだろうと、常々思って
いたところ、
ある時、婦人(ズン)会のカラオケ大会で、
この歌を歌ったとき、
林(ス)さんの奥さんが、
『あんら、竹下(スタ)さんの奥さん、
八代亜紀に、横顔がそっくりだわ』と、言われて
わたすも、納得、納得。
潜在意識(スキ)というのかなぁ、どこかで
あの人に、似ている自分を感ずていたことは、
確(ス)かだわね。

ささ、時(ズ)間に限りもあることですから、
早速、テーマ曲の、解説を始めたいと思います。
まずは、歌詞をずっくり読み味(アズ)わってみてください。
ミューズック、スタート!




・・・後半に続く・・・

木曜日, 6月 15, 2006

残業しない、夕方は・・・

6月は、梅雨というようなこともあり、
また、ボーナスやセール時期の直前であるところから、
比較的、わたし、Giovanniの職場はヒマである。
こういう時は、残業なんかしないで、
ちゃっちゃ、と、仕事を切り上げるよう努力している。

数日前、そんなで、ちゃちゃちゃっ、と、
上がってしまい、帰ろうとしたところ、
やはり帰宅の身支度をしていたY君がいた。

何気なく、今からどっちへ帰るの?などと、
尋ねたところ、
N通りのCという雑貨屋を覗きに行く、と言うので、
一緒に行くことにした。

N通りというのは、この町でも、
最近少しずつ、開拓が始まっているエリアのメイン通りで、
新しい飲食店や、雑貨を扱う店などが軒を連ねているのだが、
行く度に、前には無かった店などが出来ていて、楽しい。

Cは、わたし、Giovanniも注目している店。














主としてフランスの雑貨ーー文房具や、台所の細々したもの、
皮の財布や、布製の鞄、などーーの取り扱いがある。
世の中には、ここにもかしこにも、雑貨を取り扱う店が
増殖していて、
扱う品物も似たりよったりなことが多いのだが、
ここは、他であまり見かけない珍しい物が多い。
フランスでは当たり前に使われている、
日々の、ちょっとした雑貨や、リネン物(布巾やら、袋物やら)が
充実している。

Y君は、ちょこちょこっと何か買い物をしていたようだ。
わたし、Giovanniは、目の保養のみ。
財布の紐は、かなり固いのである。

Cからさらに先へ向かった。
このN通りも、随分と伸びてきて、
せいぜい、Cがあった辺りまでが、商店街の終わりだったのに、
ここから先にも、最近ではまだ数軒の店ができている。

そんな店の中に、何と、”Giovanni"という店を発見!
(Y君の推奨店)

ここは、主に、イタリアの文房具を取り扱う、渋い店で、
ヴェネッツィアの大理石模様紙を使った箱物や、
ペン先とインク壷とか、封蝋とか、
ドアを開けた瞬間に、”Buongiorno!"と、挨拶されそうなくらい、イタリアらしい店。
文房具独特の香りに、クラクラしたGiovanniであった。

ちょっとしたヨーロッパ周遊のように、Y君と町を歩いて、
せっかくだから、ちょっとお茶でもしようか、と、
某シアトル系coffee shopの、
2階のテラス席に落ち着き、しばし、歓談。

決して、強烈な自己主張をするようなタイプではないのだが、
このY君、内側に秘めてる力強いものがあるなぁ。

彼の、物に対するストイックな眼力。
好きな物と嫌いな物が明確なのに、嫌いな物でも、
取りあえずは、観察してやれ!という包容力?とでも言うのか。
人の見ていないところで、とても努力している青年だなぁと、
わたし、Giovanniお兄さんとしては、見ているのだが?

『リーダシップを取れないのが自分の欠点』と、
言っていたけれど、
まぁ、そこんところは、これからボチボチと、
勉強して行きなさい!と、アドヴァイスしてみた。
Y君、これからもヨロシク!

残業しないで、ゆっくり帰る夕方は、
楽しくて、嬉しい。

水曜日, 6月 14, 2006

Bossa Novaな気分


Bossa Novaとはポルトガル語で、
『新しい感覚』とか、『新しい傾向』
というような意味があるそうだ。

ブラジル音楽の一つのジャンル(様式)である、
と、定義するのが一般的なボサノヴァの解釈のようだが、
感覚、とか、傾向、という言葉が用いられていることが
物語るように、様式や形式にあまり拘らない、
新しい(自由な、と訳せないだろうか?)雰囲気を持つ
音楽、というようなことでどうだろう?

それがボサノヴァだ、と知らないままに、
何とはなく心地の良い音楽が耳に届いたり、
体を、緩慢でありながらしっかりと包んで離さない、
音楽が流れていたり。
後になって、ボサノヴァだったのか、と気づく。

日本の様々なシーンにも、
微塵の居心地の悪さも感じさせないで、
その軽妙な、宙を舞うように刻まれるリズムと、
はるか昔、どこかで聞き馴染んだかのようなメロディーが
すっくりとはまる。

毎度お馴染みの、
代官山の、和食器の店、"room+J 代官山"の、
和の品々が居並ぶ中、
今日は、生のボサノヴァのメロディーが流れた。

梅雨の合間の、少し空が明るくなった午後を、
いくつもの馴染みの曲が、エンドレスに流れ、
店主のHAALちゃんともども、しばし、
ブラジルのどこかの町の昼下がりへと、トリップ。

今までどこにいたの?
この音楽を、どこに隠していたんだ!
土の中のタネが、
突如大きな花を咲かせたかのように、
或は、長い間、着陸するタイミングを待っていた
海を渡る鳥が舞い降りたかのように、
現れた才能あふれるミュージシャン。

その、荒木俊彦の演奏によるボサノヴァライブを、
7月と、8月に、"room+J 代官山"で開催。
詳細は、"room+J 代官山"のサイトで、
近日中に告知される予定。

ボサノヴァは、
日々新しく始まる、わたしたちの人生を、
祝う、門出の音楽でもある。

月曜日, 6月 12, 2006

西表島行き














7、8年振りに、8連休もとった。
今月末の話。
西表島へ行くのだ。
ま、実際は、4泊5日かな。
前後にのんびりするから、8連休。

西表島には、従兄弟が住んでいる。
一体、あの人、何年住んでいるんだろう?
もう、20年以上会ってないんだけど。

同行するのは、従兄弟の母親、つまり、
わたし、Giovanniには、叔母に当たる人。
そして、わたしの母。
母にとって叔母は、義姉になる。

従兄弟は最近、ようやく(!)結婚し、
子どもも生まれたので、
叔母が孫に会いに行くのに、
我らも同行することになった。

世界、色々と旅したGiovanniだが、
意外と、日本での最南端記録は、どこかな?
熊本あたり?

西表との出会いは、
何かを変えるだろうか?
きっと、自分の遺伝子にはラテン気質が
含まれてると信じてるから、
日本のラテン圏との出会いには、
何か触発されるものがあるのでは?と、
密かに思っている。

日曜日, 6月 11, 2006

カレンダー









わが家のカレンダーは、
数年前から、これ、と決まっている。
ニューヨーク在住の友人が毎年、年末になると
わざわざ郵便で送ってくれるもので、
アメリカのあるコミュニティーのモノクロの写真が
月替わりに印刷されているもの。

コミュニティーの住人たちとは、
一度も会った事はないのだが、
毎年送られてくるそのカレンダーの写真を眺めつつ、
ああ、この人、歳をとったなぁ、などと、
一人、感慨に耽ったりもする。

わが家の壁には、もうこのカレンダー以外、
かかっているの想像することができない。

そんな、愛着のあるカレンダー。
送ってくれる友人には、申し開きもできないが、
実は、ほとんど役にはたっていない。

普通、カレンダーは、
月末最期の日の夜や、月が代わった最初の日に、
次のページに送るものだが、
わが家でカレンダーのページを送るのは、
年にせいぜい、2、3度である。

つまり、今日現在、わが家のカレンダーは、
まだ、2月のままである。

元々、日時の感覚に優れているのか、
あるいは、時間という制約に対しての反発からか、
時計、日記、スケジュール帳というような、
時間を管理するツールに対する興味や関心がとても薄い。

かと言って、
昔からそうであったとは思えない。
自分を、時間の管理下に置いて、かっちりと生きていた頃も
あったはずだ。

こういう今のような自分に、見事な変貌をとげたのは、
恐らく、アジアの幾つかの国々での生活の経験によると
思われる。

ある時、バンコクのイエズス会の家で、
何日か厄介になったことがあった。
夕飯は、◯時、と言われていたので、
その時間に間に合うように、と、出先から帰宅しようとして、
バンコク名物の大渋滞に巻き込まれてしまった。
バスに乗ったが、遅々として進まない。
1分に1mmくらいの感じ。
そうこうしている間に、夕飯の時刻はどんどん迫ってきた。

ようやく、最寄りのバスターミナルに到着した時は、
すでに、決められた時刻を少し過ぎてしまっていた。
そこから、猛ダッシュで家へ戻り、
汗だくになったまま、ダイニングルームに入ると、
神父たちは、みな、既に、食事を始めていた。

額に大汗をかいた、わたし、Giovanniを見て
フィリピン人の神父が、
『そんなに汗をかいてどうしたんだ?』と聞いたので、
夕飯の時刻に遅刻したから、バス停から死ぬ気で走って来たと、
説明したところ、
『ははは、走ることはないさ。遅れたら遅れた。
それでいいじゃないか! ははは!』と、言われた。

そう言われれば、インドでも、マレーシアでも、
時間に対する感覚が、非常に緩やかだった。
そんなにキリキリするこたぁない、という常識が
十分に通じるようだ。

そういう感覚に一度身を解き放ったら、
それが楽、ということに気がついた。
もちろん、この日本の一般的な社会生活で、
あちらの常識が通じない場面は多いのだが、
自分の生活の中では、
あの時の常識を通用させることもある。

その象徴が、めくらないカレンダーか。

しかし、カレンダーをめくらなくなったのには、
別の、ちょぴり悲しい思い出もある。

次回は、その話。

月曜日, 6月 05, 2006

ウラハラ

わたし、Giovanni、原宿が好き。

そんな原宿好きな、わたしに、ある日衝撃が走った。
わたしが原宿を好きな最大の根拠であった、
ある場所が、無くなってしまったのだ。
(この話は、別途また詳しく書くが)

その日以来、わたしは、そこの前を通るたび、
そちら側を見ないよう、そっぽを向いたり、
目をつぶったりして、足早に通り過ごす。

または、一筋、裏側の道を歩く。
いわゆる、ウラハラを。

職業がら、個人情報について敏感な、Giovanni。
先日、夕飯後、くつろぎながらテレヴィを観ていて、
『おいおい、これ、いいのかよ!』と、
画面に向かって叫んでしまったことがある。

町往く人に、街頭インタヴューをするコーナーで、
しょっぱなから、小さなこどもに
(もちろん、母親がついていたが)
名前と年齢を尋ねていた。

『△山◯子です。4さいです。』と、
はきはき言う彼女に、
かわいいだの、おりこうだの、と、インタヴュアーが
話しかけているところを、オンエアー。

思いっきり、個人情報だ。
しかも、面が割れた。

昨今の、こどもが次々と狙われる、事件。
こういう事件を引き起こす輩たちが、
この番組を観ていたら、
彼女に近寄って、
『◯子ちゃん、4さいになったの?
大きくなったね。
おじちゃん、◯子ちゃんが1さいのときに
会った事あるんだよ』
てな具合に、言葉巧みに声をかけ、
どこかへ連れ去ったりは、しないだろうか?

個人情報が漏れる事のないように、と、
最近では、学校や幼稚園の連絡網が廃止されたり、
学校の先生による家庭訪問なども、
嫌がられる時代になってきている。

それとは、ウラハラに、
自分のこどもたちを、有名にしたい。
歌手に、モデルに、子役タレントにしたい。
世間に、自分のこどもたちのプライバシーを、
さらして、一儲けしたい、という親たちも、
少なくはないという。

こんな心配していると、
もうどうにも止まらない!









ウラハラ、ウラハラ、ウラウラで、
ウラハラ、ウラハラ、ウラウラよん!
Giovanni、困っちゃう!

(ありがとう、そして、さようなら+老後の楽しみに+マルタ)÷3

これから書く事、信じないというのなら、ご自由に。
でも、これ、本当の話。

数日前、"Tru Calling"という、
予知夢を見る女の子が主人公のドラマのことを、
ここで書いた。
その時、最近、懐かしい人にばったり会ったり
することが、多い、とも書いた。

そして、その翌日、
フランス時代の友人たちと、老後の楽しみに備えて、
やりとりを再開しよう、と書いて、
ノールウェイ人の友人のことを書いた。
そして、その友人とのやりとりが、
再び、開始された偶然として、
ニューヨークのTという友人のことを書いた。

で、今朝、ふと思いたって、
マルタのことを書いたのである。

仕事を終えて、帰宅し、
Macの電源を入れて、メールのチェックをした。

そうしたら、何とこんなメールが来ていたのだ。

『親愛なる友人たちへ

 今、まさに、みなさんとこの喜びを分かち合うときです。
 わたしたちは、7月にマルタで、そして10月にニューヨークで、
 わたしたちの結婚式をあげることになりました。
 そしてぜひ、みなさんに、どちらか一方の、または両方の式に、
 お越し下されば、こんなに喜ばしいことはありません。』

 添付した写真は、去年の9月21日ブルックリン市役所で、
 入籍したときのものです。

 式に参列していただくために、遠方からお越しいただくのであれば、
 どうぞ、お早めにおっしゃってください。
 旅程と、宿泊について、出来る限りのお手伝いをさせていただきます。

 わたしたちの、マルタでの結婚式は、7月28日午後7時半より
 マニカタ教会で執り行いわれます。
 軽食をご用意しております。
 この、近代的な美しい教会は、リチャード・イングランドの
 設計によるもので、
 第二次ヴァチカン公会議による、カトリック教会刷新の
 一環として建てられました。

 ニューヨークの結婚式は、わたしたちの教区教会で、
 ナイジェル・マセイ牧師の司式によるものとなります。
 軽食と、生バンドの音楽をご用意しております。

 みなさんからのお返事をお待ちしています。
 お会いできるのを、楽しみにしています。

 クリスティーン&ティム』

つまり、Jのことを書くにあたって、
本題ではない登場人物であったT(Tim)のことを
何気なく書いたところ、3日後に、
そのT自身から、数ヶ月振りにメールが届き、
結婚の相手が、マルタ出身の女性だ、ということ。

これは、単なる偶然なのか?
偶然は、必然ということならば、そういうことなのか?

人生は、大きなパズルで、
日々の生活は、小さなパズルの1ピース。
人は、死ぬまで、
パズルのピースを一つ、また一つ、と、はめながら、
最期に、そのパズルに描かれたのが、
何であるかを知る。

そんなことを言われたことがある。





わたし、Giovanniのパズルには、
どんな絵が描かれているのだろう?

日曜日, 6月 04, 2006

マルタ


ワールドカップも、サッカーも、
全く、興味無い、わたし、Giovanni。
団体競技が、苦手なもので。ご存知の通り。

ここのところ、色々なところで目にする、
ワールドカップの話題の中で、『マルタ戦』とあるが、
これは、マルタ共和国チームと戦うということ?

マルタ、マルタ共和国、実は、行った事ある。
当時のアメリカ、ブッシュ大統領と
ソ連、ゴルバチョフ書記長の、
米ソ首脳会談よりも前の話なので、
一体いつのことだろう?

シチリアの南端から、船で渡った。
同行の友人の知り合いが、その船の乗組員で、
乗客とは別に、乗組員たちの食堂で、
夕飯をごちそうになった。
しっかりとアルデンテなのに、クリーミーな
小さな蛸の入ったしょっぱめのリゾットと、
豪快に、カラリと仕上がった、小アジの唐揚げ。
うー、旨かった、最高だった。忘れられない。

バレッタという名前の首都を中心とした、
マルタの印象は、
城塞の町。
白茶けた石で、何もかもが作られていた。
歩く限り、こつんこつんと、足音が響くような、
石畳が、永遠に続く町。

ところどころに生えている、
大きなサボテンが、
『ここは南である』ということを
時折、思い出させてくれた。
大好きな映画、”Nuovo Cinema Paradiso"の
いくつかのシーンに、共通する風景。

限りなくイタリアに近いのに、
公用語は、マルタ語と並んで英語。
イギリス連邦に加入していた時代の名残のようだ。
そう言えば、
友人のAlisonも、流暢な英語を話す女性だった。

市内の交通は、バス。
日本でなら、とっくにお役御免となっているような、
ボンネットバス、とでも言うのか、
懐かしい風体をした、小さなバスが、
町中(国中)を、縦横無尽に走って、
市民(国民)の生活を支えていた。








これと言って、何かとても目立った出来事もなく、
印象に残る、モニュメントを見たわけでもない。
平凡と言えば、平凡。
退屈と言えば、退屈な町(国)だったのに、
まるで、古い色あせた映画を、
ずうっと見続けているかのように、
おんぼろバスで辿った道のりを、
次々と思い出す。

金曜日, 6月 02, 2006

老後の楽しみに

年齢は、加速度をつけながら、増えて行くものだと、
聞いてはいたが、
まさに、その通りなので驚いてしまう。

一昨年の一年間と、去年のそれは、明らかに違うし、
半分を過ぎた今年は、すでに、随分な速度を感じている。

父親の転勤のせいもあったし、
また、大学を卒業した後、すぐに日本に
いなくなってしまったこともあり、
小学校から大学を通して、
学生時代の友人との付き合いは、限りなく0に近い。

その反面、
フランス時代の友人たちとは、
ある意味、寝食を共にした、
仲間ーーcompanionsーーなので、
特に印象深かったり、固い絆で結ばれている、
そういう感覚が強い。

だが、だからと言って、この何年もの間、
密度の濃い、コンスタントなおつきあいをしている
相手は、ほんの一握りである。

ノールウェイ人のJは、
わたし、Giovanniが最初にフランスでの生活を
始めた時からの友人で、
後に、”we are blod brothers!"
(俺たちゃ『血兄弟』さ!)と、言い合った親友となった。

Jとは、その後、インドでも、
学生寮の隣同士の部屋を借りて、
一緒に働いたり、長距離列車の旅をしたり、
そんな間柄だった。

ある時などは、まだ、飲酒が世間から、
白い目で見られがちだったインド南部の町で、
わざわざ、自分たちの住む地域から、
うんと離れた所にあった酒屋で、瓶ビールを買い、
新聞紙にくるんだまま飲み干して、
また、遠い所へ瓶を捨てに行く、というような
悪さも一緒した、兄弟だった。












インドのどこかの町の列車の駅で、
Jは、そのまま北へ向かい、
わたしは下車をして、そこで、お別れ、という、
ドラマチックな最後で、
二人一緒のインド生活は、終わりになった。
大勢の旅行者が、乗り換えや、何やらで、
ごった返していた、駅のホームでの雑踏の中で、
最後のhugを交わした。
動き出した列車から、いつまでもこちらを見ながら
手を振るJ・・・
最愛の兄との別れに、涙が無かったと言えば、
大嘘つきになる。

そんなJと、交流が復活したのは、
偶然と言えば、偶然。
しかし、偶然は、必然と言うのなら、
そういうことだったのだろう。

旧知の日本人の友人から、
久しぶりに便りをもらったことがあった。
親類かどなたかの、結婚式でニューヨークへ
行っていたとのことだった。

そのニューヨークで、
わたし、Giovanniを知っているというアメリカ人に
会ったという報せで、
彼自身の手紙と一緒に、
そのTというアメリカ人からの短いメッセージが
同封されていた。

十年以上も、会った事はもちろん、
手紙すらもらった事もなかったTと、そこから、
メールでのやりとりが始まり、
ネット上とは言え、再会できたことを喜び合った。

Tは、やはりJとの付き合いがあり、
わたし、Giovanniは、
兄であるJの消息を、久しぶりにTから聞くこととなり、
そこから、Jとのメールのやりとりが、
めでたく、始まったのである。

実は、
長い間、消息知らずだった友人たちと、
少しずつ、再会を果たそうとしている。

世界に散らばっている友人たちなので、
実際に会っての再会は、容易くはないのだが、
メールのやりとりなどであれば、
いとも簡単である。

このまま行くと、
老後はそう、遠く無い将来のようにも思えるのである。
その為にも、
老後の楽しみを一緒に味わえる友人たちを、
一人でも多く、丸いテーブルに招待しておこう。

木曜日, 6月 01, 2006

ありがとう、そして、さようなら?


ちょっとミーハーだが、
ケーブルテレヴィで放映している、
“Tru Calling"というアメリカの連続ドラマについて。

数ヶ月前から、新シリーズとして始まったようなのだが、
あまり興味がなくて、観てはいなかったのを、
先日、偶然に観てしまった。

1回しか観ていないので、
全貌は明らかではないが、恐らく、
全体の流れとしては、こんな感じ。

主人公の大学生、トゥルーは、予知夢を見る女の子。
色々な事件に巻き込まれ、そこで、殺人現場に遭遇する。
殺人された、遺体が、突然起き上がって、
トゥルーに向かって
『わたしを助けて!』と、叫ぶところで、
フラッシュバックになり、目を覚まし、
今の事件が夢であったことが分かる。
で、その夢で起きたことが、現実にならないように、
その現場へ行って、事件を防いでいく。

というような、展開。
まあ、ドラマならではな、お話である。

予知夢、ではないが、
ある人のことを不意に思い出したりすると、
その直後に、
その人が現れたり、その人から電話がかかったりする、
というような経験を時々する。

単なる偶然かも知れないし、
偶然は、全て、必然と考えれば、必然かも?

この数日ーー数日とは言っても3日間くらいーーの間に、
何年も会っていない友人や、元同僚に、
ばったり出会ったりすることが、続いている。

何だろうなぁ、これ。
死が近くなると、長年会う事のできなかった人に、
お別れを言うために、引き合わされる、
などと、言ったりしなかっただろうか?

そういうことなのだろうか?

だったとしたら、言っておこう。
ありがとう、そして、さようなら!

でも、わたし、Giovanniの身の上に、
事件が起きたとしても、
きっと、トゥルーが助けに来てくれるはず。

水曜日, 5月 31, 2006

対岸の火事




長い人生(?)の中で、
実際に火事の現場を見たことは、何度もはない。
かすかな記憶を辿れば、小学生の頃、
近所の銭湯が出火したのを、
野次馬丸出しで、見に行った事があった。
(と、思うのだが、定かではない)

もちろん、その火事を、
自分でどうこうできるはずもなく、
消防隊が消火している様子を、
はらはらしながら傍観していることしか、
我々には出来ない。

この数日間で、インドネシアでの地震のことを
2度、ここに書いた。
死者の数も、どんどん増えているようで、
遠く(地球的視野で言えば近いのだが)離れた
ここからでは、何の手も施す事ができず、
悔しい気持ちばかりが募る。
対岸の火事を、ただ、傍観しているしかない。

この地震に関することをここに書いたことで、
実は、思っている事がある。

このブログも、案外、色々な人が読んでくださっていて、
コメントも、ちらほらとではあるが、
日々、何かしら、いただくのだが、
今のところ、
今回の地震について、どなたからも、何も言われていない。
そう言えば、職場の、日常の会話の中でも、
誰もこのことについて言及していなかった。

コメントをするとしても、
または口に出して話してみたとしても、
ある種の虚しさばかりが蓄積されるばかりなのかも知れないし、
何を言ってみたところで、何が変わる訳でもない、と、
みな思っているのだろうか?

或は、単なる無関心で、まさに、『対岸の火事』。
火の粉も飛んで来ず、延焼の心配も無いなら、
自分たちには、何ら関わりのないこと、と、
思っているのだろうか?

今回の地震のことは、
”Around the Round Table - intercontinental"にも、
短く紹介したのだが、
実は、そちらを通じては、
即座に何人からかのメールを受け取った。
イギリス、フランス、シンガポールなどの友人たちからだ。

日本人だから、そうでないから、
という比較論は、間違っているとは思うが、
往々にして、島国にいる日本人は、
世界のどこで何が起きても、対岸の火事として、
眺めていることが、多いように思う。

周わりを、ぐるりと海に囲まれているこの国は、
まさに、ここより外の国や地域は、対岸であるから、
仕方の無いことなのだろうか?

そう、言っている、わたし、Giovanniとて、同様で、
今回は、自分に馴染みのあるインドネシアであったが、
これが、モルジブだったりベネズエラだったら、
ここまでの思いはしないまま、
遠くで燃える火事の火を、ちらっと見るだけで、
おしまいだったかも知れない。

思いを届かせる、という、非科学的な方法を、
わたし、Giovanniは、信じている。

以前、スリランカを訪問したことがある。
民族間の紛争がとても激しい時期で、
(今もそれは続いているが)
銃を抱えた兵士が、至る所におり、
わたしが滞在していたわずか10日ほどの間にも、
政治家が暗殺される、というような
緊迫した状況下だった。

学生たちのグループと、話す機会があって、
そこで、
『この国のこういう状況を見て、あなたの意見を
聞かせてください。どうしたら、こういう状況から
我々は脱することができるのでしょうか?』と、
質問をされた。

わたし、Giovanniも、政治に明るいわけではなく、
また、彼らの態度が熱心であるだけに、
不用意な発言はできないと思った。

『政治的な発言は、わたしにはできない。
わたしに言えるのは、目に見えない力を
信じる事が大切なのではないか、ということだ。』
苦し紛れ半分に、このように答えたのを覚えている。

彼らの反応は、非常に冷ややかで、
それで何の解決になるというのか?と、
批難する声も、上がったが、
それは当然と言えば当然だったろう。

わたしがそこで言いたかったのは、
人間として、できる色々な手をつくした上で、
後は、何か見えない力に委ねるしかない、
ということだった。
そういう、
何か気持ちのよりどころのような場所がないと、
行き詰まってしまって、
ただ、しんどいだけなのではないか、と、
言いたかったのだ。

彼らとのディスカッションの最後に、
わたしは、一つ、約束をした事がある。

『今日、みなさんと出会った事、
スリランカという国にあなたたちがいて、
日々の緊迫の中で、希望を捨てずに生き続けようと
しているということ。
わたしは、生涯、このことを忘れずに覚えている。
いつも、わたしの思いの中に、
あなたたちは存在し続けるでしょう。』

それまで、若干、
期待はずれに白けた顔をしていた学生たちが、
わたしが宣言した約束を聞いて、
俄に表情を変え、口々に、
『わたしたちも、
あなたとの今日の出会いを忘れない!
あなたも、いつまでもわたしたちの思いの中に
いるでしょう。』と、言ってれた。

そして、現に、あれからの長い歳月で、
もちろん、顔も名前も、とうの昔に忘れてしまったが、
約束通り、彼らは今も、わたしの思いの内にいる。
と、同時に、
彼らの言葉に、彼らとの約束の言葉に、
支えられながら、今を生きている自分がいる。

災害や、思いもかけなかった事故や、
或は、戦争で、
絶望のどん底に突き落とされた人たちが、
何を待ち望んでいるだろうか、と、考えるとき、
それは、救助の手であったり、温かい食事だったり、
政治的和解だったりするかも知れない。

または、もっと身近な事を考えるとき、
身よりもなく、孤独の中で寂しく生きる高齢者や、
親に虐待を受け、息を殺しながら日々を送るこどもたちが、
何を待っているだろうか?
その答えを見いだそうとするとき、
わたし、Giovanniは、こう考える。

そういう状況にある人たちが、望み、待っているのは、
単なる物資や、形式だけではなく
(それらもまたもちろん重要であるが)
自分たちは、仲間や家族や、社会、世界から、
決して忘れられてはいない、という
確信ではないかと思う。

思いを届ける、気持ちを送る、という行為。
それによって何かが劇的に変わるとか、
全てが元に戻る、というのではないのだが、
そういう目に見えない力が、
実は、人の心に働きかけるのではないか、と、
わたし、Giovanniは、考える。

幸いな事に、わたしには、
最後に会ってから、何十年が経っても、
今も尚、見えない何かによって、
強く繋がっている、友人たち、仲間たちが、
世界の至る所にいる。
わたしのことを、きっと忘れないでいてくれる、
彼らの存在にわたしは、生かされているのだ。

対岸の火事を、ここから消す事はできない。
だが、
わたしは、あなたたちと一緒にいる、
というこの思いを、届けることは、
さほど、難しくはない。

月曜日, 5月 29, 2006

訂正

ジャワ島の地震で大きな被害を受けたのは、
バンドゥン(Bandung)ではなく、
ジョグジャカルタ南部の、バントゥル(Bantul)だと、
友人から報せがきました。

どちらにしても、彼らに思いを合わせる気持ちは、
変わりません。

インドネシア/ジャワ島地震 続報

































ジョグジャカルタで地震、と聞いて、
昔、訪ねたあの古い美しい町を思い出した。

死者は当初の発表の倍にもふくれあがり、
雨期が始まったジャワでは、容赦無く、
避難している人たちを、
激しい雨が濡らしているという。

今日のニュースの続報で、
バンドゥンもまた、
最も大きな被害に遭った街だと、報道されていた。

バンドゥンは、わたし、Giovanniも
2ヶ月、生活をした町である。
旧い都だった町で、
ジャカルタや、ジョグジャカルタ
(現地の人たちは、”ジョグジャ”と呼ぶ)
とは、趣を異にした、
落ち着いた、しっとりとした町である。

その町にある、大きな修道院の、一間を借りて、
わたしは、生活をしていたのであるが、
あの、修道院は、一体どうなっただろうか?
そこに住む、シスターたちは?

1995年の淡路島阪神大震災は、
わたし、Giovanniの身近な人たちの多くが、
命を失ったり、家や財産を失った災害だった。

ちょうど、インド、タイ、シンガポール、そして
インドネシアでの仕事を終えて、
日本に帰国し、暫く、何もすることなく
ぶらぶらしている時だったこともあり、
地震直後から、救援物資を担げるだけ担いで、
神戸へ向かった経験がある。

その後、2ヶ月近く、阪急六甲の駅近くの保育所
(当時は、避難所として30人近い被災者が
生活をしていた)で、炊き出しをしていた。

あれから10年以上の年月が経ったが、
この間にも、日本各地、世界各地で、
規模の大小を問わず、地震の被害は起きている。
その度に、
自分に、何ができるのだろうか?と、問いかける。

今すぐにでも、駆けつけて、神戸での経験を活かして、
救援活動ができるのじゃないだろうか?
と、思うと同時に、
今の自分には、物理的にそうできない現実があり、
そのジレンマに、歯噛みをしたくなる。

今これを書いている間も、
(そして、あながたこれを読んでいる間も)
痛み苦しみを味わい、
絶望の淵に立たされて、
途方に暮れている人たちがいるという現実は、
わたしたちのものでは、ないのだろうか?

日曜日, 5月 28, 2006

直球ど真ん中!


『直球ど真ん中のgiovanniさんのブログは
読み手のココロに響きます。(・・・と思います。)』
blogger仲間の、cavacavienさんに、
こんなコメントをいただきました。

そうですか?直球ど真ん中ですか?

確かに、言いたい事をはっきり言う人だ、と、
言われることはあります。
好きな事は好き、とか、嫌な事は嫌、みたいに。

嫌な事は嫌、の、有名な話だと、
コンビニのレジで、柿のタネを店員に投げつるなど、
激しい面も、実はあったり。

それでも、昔はとても引っ込み思案で、
言いたい事をはっきり言うなんてことは出来ない子だった。
以前、何かの雑誌の取材を受けた事があって、
できあがった紙面に、
『靴の上から痒いところをかくような人』って
書かれたことがあった。
要するに、もっとズバッと言ってよ、と、
取材した人は思ったらしい。

こういうところは、実は今も、
本質的には変わっていないようにも思うのだけどねぇ。
そうではないのかな?

フランスにいた時や、アジアの国々で働いていた頃、
確かに、言いたい事をはっきり言ったり、
自分を主張したりしないと、
埋もれてしまっていたかもしれない。

日本や一部のアジアの国では、
黙っている事が美徳、とか、謙虚になることが大切、
みたいな文化があるのだけれど、
それが通じない世界は広い。

Giovanniは黙ってるから、OKってことね、
って、思われるだけで、
黙ってるけど、本当は反対!などと言うのは
通じないことがほとんど。

直球ストレートは、嫌われたり、敬遠されたりするかな、
と、思っていたけど、
ココロに響くと、お褒めを頂いたから、
どんどん直球でいくことにします。
(cavacavienさんも、同類と見てます!)

土曜日, 5月 27, 2006

ジョグジャカルタにて地震



インドネシアの古都、ジョグジャカルタ付近で
大きな地震があったらしい。
犠牲者が3千人近い、とか?

1992年頃、何日か滞在した事のある町でもあり、
また、友人の家族が住む町でもある。
友人の実家は、全壊したらしいが、
家族は、みな無事とのこと。

遠くにいることが歯がゆい。

犠牲になった人々のことを思い、
静かに祈りたいと思う。

遠いけど近く、昔だけど今も



20年前、日本を捨てるようにして、
フランスへ行ったという話
を、
ここに書いた、その同じ日に、
同様の内容の日記を、Around the Round Table - intercontinental
にも書いた。

それを読んでくれた友人から、メールが届いた。

彼女はデンマーク人で、フランスのコミュニティーで、
一緒に働いた仲である。
わたし、Giovanniよりは、随分後になって、やって来たかと思いきや、
同年の数ヶ月違いということらしい。
まあ、言ってみれば、同期生?

彼女はその後、隣村の修道会に入会して、
シスターになり、今もその村で生活をしている。

彼女とも、1995年にフランスへ行って以来、
会っていないし、手紙やメールをもらった記憶も無いので、
12、13年振りのやりとりということになる。

毎回、思うことだし、
ここでも同様の事を何度か、書いたかと思うのだが、
そういう距離感や時間の感覚とは不思議なもので、
何千キロを離れ、何年もが経っているというのに、
こうして便りをもらうと、
彼女と、よく散歩をしたあの20年前の日々が、
あたかもついこの間のことのように感じられるし、
まるで、
今もその日々が続いているかのように錯覚することもある。

確か、ご両親とも音楽家で、
本人も音楽の勉強をした彼女だったが、
一緒にクワイヤーの練習をしたことを、思い出す。
今も、毎日のクワイヤー練習は、担当だそうだ。

遠くにいるはずなのに、
すぐ近くにいるように感じ、
随分昔の出来事なのに、あたかもあの時が、
今も続いているような感じ。

COMMUNIONという神秘を、感じざるを得ないと、
わたし、Giovanniは思うのである。