
何か不幸せな出来事が起きた、そのただ中にいる人に、
「そういう中にあってもこれは幸いでしたね」と
声をかけることがある。
上手くいけば励ましとなるが、そうならないで、
逆にその人の悲しみやつらさを増しかねないこともある。
人が何をもってそれを不幸せと呼び、幸いと呼ぶか、
それは様々である。
しかし、人との別れ、とりわけ、好意を抱いていた人、
愛していた人を失うということは、
何人にとってもそれに勝る不幸せはない。
好意を抱いている人、愛している人と、
共に過ごす時間は、
無条件に幸せなものである。
体を寄せ合って眠るときも、
ただ並んで歩いているときですら、
それはそれは、幸せなものである。
ましてや、一つのテーブルを囲んで食事をするときの、
至福の喜び・・・
ーースープの熱が程よく冷めるまでの時間も、
キャセロールの中味が何であるかを色々と推理するゲームも、
手でやる方がよく混ざるドレッシングを、
サラダにからめているその手さばきへの感嘆符(!)も、
その至福の喜びを作り出す大切な材料となる。
イタリア料理の気軽さは、
親しい友人、或は、それ以上の関係を築こうとしている
特別な人(また、或は、既にそういう関係で結ばれている
とても特別な人)との食事には、打ってつけである。
メニューを眺めながら、
相手の食指を動かす料理が何であるかを確認する。
あちらが、トマトソースのパスタを選んだのなら、
こちらは、チーズのソースのものを。
肉料理を何か、と、言えば、
それに合う魚介類のおすすめの皿は何であるかを、
給仕に聞いてみたりする。
前菜としてのサラダは、シンプルでいて、何か珍しいもの
ーー木の実の味のするルコラという野菜のサラダなんか
どうかな?ーーを、注文する。
手の届かないような値の張るワインなど、
全く必要なく、その店のハウスワインをカラフェで・・・
料理が順番に出て来るときに、
もし、各自の取り皿が運ばれて来なければ、
すぐに厨房に取りに戻ってもらう。
何故なら、これから二人は、
一つの皿の料理を分け合って食べるのだから。
サラダも、パスタも、肉も魚も。
これが、イタリア料理が情熱的と言われる所以である。
ゆっくりと、全ての料理を味わい、
会話も最高潮に盛り上がったところで、
ドルチェメニューを取り寄せる。
ゆったりと採った食事は、人の胃袋を充分に満たしてくれる。
いくら、『別腹』とは言え、
もうそんなには食べる事ができない、と、言うのなら、
ドルチェでさえ、一皿を半分ずつにすれば良い。
相手の満腹中枢が、まだかろうじて働いているのなら、
好きなお菓子を選んでもらおう。
自分では、決められない、と、言うのならば、
奇をてらわず、ヴァニラとチョコレートのアイスクリームとか、
ティラミスとかをオーダーすれば良い。
イタリア料理の締めくくりとして、
エスプレッソコーヒーは欠かすことができない。
濃厚で爽やかな苦みは、たいらげた全ての料理の味わいの思い出を、
舌に刻み込む作用を持っている。
仮に、この最後のコーヒーを、
この食事の相手と一緒に味わうことができないとしたら、
それは、その人との至福の喜びのときに、
一つだけ、無念の気持ちを残すことになるかも知れない。
共有した幸せな時間の思い出は、
委細に渡ってくっきりと、
思い出を司る心のどこかの領域に刻み込まれる。
どこで、いつ出会ったか、
どの道を歩いたか、
ある出来事について、その人はどんな言葉で語ったか。
ところが、一転、
そのような思い出を分かち合った人との別離によって、
楽しみと喜びの甘美な味わいは、
苦みばしった苦痛の味に変化する。
出会いの場所も、辿った道も、その人が用いたことばの
一つ一つでさえ、
もうそこへは立ち入ることのできない禁域を作リ出す。
***
その人が初めてこの部屋を訪れた夜の闇の色、
その人が使った白い皿やマグカップの無機質な温もり、
二人で耳を澄まして聞いた夜明けの静寂。
その人と自分を取り巻いていた、全ての時間と空間が、
際限の無い涙を流させる道具と化す。
昨日まで、輝きを放っていた全ての時間と空間が、
虚しい、不幸せのかたまりへと、変貌してしまった。
幸せなときを分け合った、他の全ての感覚と共に、
サラダやパスタやティラミスを味わった至福の感覚は、
その幸せな時間に終わりが訪れたことを告げられた。
その不幸せの中で、唯一、
それを幸せと呼ぶことができるならば、
それは、その人とコーヒーを飲む喜びを分ち合わなかったこと。
こどもだから、苦いから、と、
あのとき、その人がコーヒーを飲まなかったことが、
今となっては、幸いだったのかも知れない。
何故なら、もしこれで、コーヒーまでもが、
悲しみの刻印の味に変わってしまったらなら、
もうここに残される幸せは、何も無くなってしまうから。
他の全ての喜びが、悲しみへと姿を変え、
コーヒーを飲む幸せだけが、今の自分に残された。
これは、『不幸中の幸い』なのだ、と、言い聞かせてみる。
でもいくらそうだと言い聞かせてみたとしても、
独りで味わうコーヒーは、
舌にも、そして心にも、
いつにも増して一層の苦みを与えることしかできないようだ。
(完)
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部屋の掃除をしていたら、
もう、少し黄色く変色している何枚かの紙が出てきた。
ワープロで書いた文章を、感熱紙に印刷したものだ。
その内の一枚が、『不幸中の幸い』の原稿である。
今から、7、8年?それとも10年くらい前になるのか、
文章を書き始めた頃のもので、
今読み返すと、青臭くて、ちょっと気恥ずかしいのだが、
ここに、わたし、Giovanniの今の文章の原点がある。
別に、文章を書く事を生業としているわけではないので、
言い方は大げさだけれど。
人間は、必ず、食べる。
食べる行為は、生きる、命をつなぐ、ということである。
誰かと出会ったり、誰かを好きになったり、
また、別離のときも、悲しいときも、
とりあえずは、食べるのである。
それだけに、食べるシーンには、
たくさんの感情や、思いがからんで、
思い出として刻まれるように思うのである。
ここのブログのタイトル、
『丸いテーブルを囲めば』も、
人生というテーブルを、
ときには喜びとともに、または、悲嘆に暮れながら、
囲みながら生きて行く、
わたし、Giovanniの人生を描く事ができれば、と、
選んだタイトルなのである。
眠っていた原稿が、せっかく日の目を見たので、
ここで読んでもらえれば、と、アップした。
それに当たって、若干の言い回しの修正と、
句読点、改行の変更をしたが、
文章そのままは、約10年前の、
わたし、Giovanniである。
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