
今しがた、母が電話をかけてきた。
いつもなら、もう寝ている時間なのに、珍しいな、と、思っていたら、
叔父が昨日亡くなったという訃報だった。
K叔父は、母の妹の連れ合いで、
ここ数年、癌を患っており、色々な療法を試し繰り返したが、
最後の頼みであった手術の甲斐も無く、天国へと旅立ったのだった。
以前、(確か西表島への旅について書いた際)
ここで、伊谷純一郎について書いた事があった。
伊谷純一郎は、母の従兄弟に当たる人だが、
京都大学の霊長類研究所で、チンパンジーの研究に多くを費やし、
世界でも初めての、
野生のチンパンジーの餌付けに成功したグループの一員であった。
叔父は、その伊谷の助手を務めた人で、
その当時、やはり伊谷の研究室で働いていた叔母とは、
伊谷を通じて知り合った、ということである。
二人は結婚に至り、長女S子と、長男Rの二人の子を設けた。
そのS子が小学1年生、Rは未だ2歳か3歳、といった頃だったろうか。
叔父が、チンパンジーの観察のため、
確か、2年近くを、
タンザニアのタンガニーカ湖のほとりの村、キゴマ村へ赴く事になった。
叔父と叔母の間で、どういうやりとりがあったのかは知らないが、
多くの年長者たちの反対を乗り越え、
最終的には、二人の幼い子どもたち連れ、
家族4人で、キゴマ村での生活を送る事になったのである。
叔父は、研究に大きな成果を得、
幼い子ども二人は、幼いなりに、
自然の不思議や生きる事の厳しさと愉しさを知り、
そして、叔母は、持ち前の旺盛な好奇心で、
村の女性たちとすっかり打ち解け、村の暮らしを体得していった。
(叔父家族のキゴマ村での生活は、NHKのドキュメンタリーとして
放映されたのだ!)
帰国後、叔父は同じ分野での研究を続ける生活を続けた。
叔母は、アフリカからの留学生を自宅に招いたり、
アフリカの生活を語る役割を買って出た。
タンザニアの村で幼い時期を過ごした二人は、
やはりユニークに育ち、今では立派な大人である。
二人の子どもたちを巣立たせた叔母は、
永年の夢であった、キゴマ村の人たちへの恩返しにと、
村の女性たちが、経済的に自立する事のできる、
機織りの技術を考案し、それを普及させるために、
その後、何度かキゴマ村を訪れている。
そして、後年、叔父の協力の元、ワトト基金という、
こどもたちの教育基金を設立するまでに至ったのであった。
ある時、短期滞在で、キゴマ村を訪れていた叔父の所へ、
ある日本人が訪ねて来た。
ワトト基金について、聞きつけて来たということで、
基金への献金として、100万円を寄付して行ったその女性は、
叔父の言葉を借りると、
『日本の有名な歌手らしいよ。マットウヤ何とかという名前だった』
そういう事に疎い叔父には、ユーミンも、
マットウヤ何とか、という人になってしまったね、と、
叔父らしい逸話として、笑い話になっている。
K叔父に最期に会ったのは、いつだっただろう?
いつも日に焼けた赤黒い顔に、
いつの頃からか生やしていた顎ヒゲ。
寡黙で、話すときもボソボソと、消え入るような言葉だった、K叔父。
叔父の病いから、ワトト基金の活動は、
残念ながら停止となり、
恐らく、叔父は遠いキゴマの空と、チンパンジーの森に、
思いを馳せながら、闘病と続け、
ついに、昨日、その懐かしい空へ向かって旅立って行ったのだと、
わたし、Giovanniは、信じて止まない。
長く看病に全身全霊を注いだ叔母と、
叔母の看病を支えた、S子、Rに、
心から弔慰を伝えるとともに、
キゴマの空のはるか高い所へ帰っていったK叔父の、
永遠の平安の眠りを、祈るばかりである。
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