水曜日, 8月 23, 2006

もう少し待ってて

9月3日(日)が、最終だから。
それまで、待ってて。

ごめんなさい!

(笑)

日曜日, 8月 20, 2006

小鳥の集まる木













オードリー・ヘップバーンがジェラートを食べた
大階段から、さほど遠くないある道路沿いに、
小鳥の集まる1本の大きな木がある。

いつも、その木に小鳥たちが群れをなしているのかどうか、
そこまでは分からないのだが、
夏の夕方、夕立が降ろうとしているような、
一天俄にかき曇ったような天気の時、
何百、或は何千もの小鳥が、枝がたわわになるほどに止まり、
チュピチュピ、チュンチュンと鳴き続けている。

このローマの町中にある小鳥の集まる木と、
同じような木を、
タイのバンコックの町の真ん中でも見た事がある。
ローマと同様、
夕立の直前の、空気が鈍く震えるような、
濃いチャコール色の絵の具をこぼしたような空の下、
無数の小鳥たちが、枝を揺らす木。

彼らが、いつこれらの木を、その木だ!と決めたのだろうか?
それより、誰が決めたの?小鳥の長老の意見を聞いて?
なんて、考えると、ちょっとしたメルヘン。

最近、近隣の駅の最寄りのショッピングモールで買い物して、
帰ろうとしたら、
ピーヒュルヒュルヒュル、と、強烈な不快音が聞こえてきた。
何だろうと眺めてみると、
二人のおじさんが、
カセットテープレコーダーのハウリング音を利用して、
ある1本の木に止まっている、小鳥の群れを追い払おうとしていた。

メルヘン風に言うと、
おじさんVS小鳥さんたちの戦い。
優しい心の少年が現れて、おじさんを追っ払い、
小鳥さんたちは、いつまでも幸せに、
その木の上で暮らしましたとさ。
てぇなところだろうか?

こういう木の事、ちょっと調べてみようと思い、
検索機能で、
『小鳥/集まる/木』を検索してみたところ、
出て来たのは・・・

集団ねぐら。

メルヘンにしては、どうなんだろう?
このネーミング?

金曜日, 8月 18, 2006

普通の人?




友人のHさん(女子)から、お誘いを受けて、
Hさんの友だち(女子)と、その方の友だち(男子)とで、
飲む事になった。

場所は代々木にある小さな店で、カウンターと、
軒先を借りたテーブル席が3つ。
3つの内の2つを無理矢理くっつけて、
花火大会帰りの混雑した中、4人で腰掛けるスペースを何とかゲットした。

旨い赤ワインと、フランスのビストロ仕立ての皿が幾品か。
美味しい酒と食べ物を、さらに引き立てるのが
尽きぬ事の無い会話であるのは、言うまでもないこと。

わたし、GiovanniとHさん、
HさんとYさん、
YさんとJ君、が、それぞれ知り合いなのだが、
それ以外は、みんな初対面同士という組み合わせだったのだが、
何となく、話が合って、会話も弾みがついていった。

それぞれの自己紹介なんかをしたり、
後は、旅でのエピソードだったり、職場での話だったり。

そんな中、おもむろに、J君が聞いた。
今年30歳になるんだけれど、心構え、必要ですかね?
というような、質問。

この質問にも、随分と花が咲き枝葉が伸びたのだけれど、
何より、こういう質問を聞いて、
あー、普通の人、と、思ってしまったのは不謹慎だろうか?

自分の30歳は、いつだっけ?と、
遠くを思い出したりしてる、わたし、Giovanni。
つゆぞ、そんな問いかけに出くわした事の無い人生を
わたし、Giovanniは送ってきたのだろうか?

ぐるり周りを見回しても、
自分と似たり寄ったりな、遠回り、寄り道をしながら、
ゆっくりゆっくり歩いている輩ばかりである。

いわゆる、一般的な、というのかな?
普通に、生きて来ている人との出会いが、
何故だか妙に新鮮だった。

 *もちろん、各人の人生は、それぞれにユニークで、
 他人の誰にも真似することのできない、
 唯一無二なのである!

わたし、本人としては、
決して特異な、奇抜な人生を送ってきているとは、
全く思わないのだけれど、
随分、変わり者なのだそうだ、他人から言わせると。

でも、J君、誤解なきよう。
あの日は、随分大人しいほうでした、わたし、Giovanni。

木曜日, 8月 10, 2006

打ち上げ花火

















8年間皆勤だった、C市の花火大会に、
昨年今年と行く事ができなかった。
今年も、花火を見ずに夏が終わってしまうのか、と、
ちょっと残念な気持ちでいたのだが、
わたし、Giovanniの住む町の、
川を挟んだ向こう側の花火大会が、今日あることを知って、
仕事の後、自転車を飛ばして戻って来た。

職場の子たちが何人か、来ているようだったが、
これ以上先へ進んだら、みんなのいる場所に到着する頃には、
花火が終わってしまうと思い、
自分の家に近い河原に自転車を止めた。

C市の花火大会は、
たいてい数人のいつもの仲間と融通をつけ合って、
誰かが早い時間から場所取りをすることになっていた。
クレーンの所ね、で通じるいつもの場所は、
目の前に花火が打ち上がる絶好の場所で、
その迫力は、満点の特等席で、花火を堪能するのだ。

今日の花火は、そんな大パノラマ的花火とは、趣きを異にし、
遠くで次々と光を放つのを、
途中で買った缶ビールと柿ピー片手に、一人静かに眺めたのだった。

川が途中湾曲していることもあり、
実際は、川の中州で打ち上げを行っているのだが、
そこから見れば、丁度川の対岸で打ち上げているようにも見え、
対岸の火事、ならぬ、対岸の花火、のように、
どこか、現実味や臨場感に欠けているようで、
それでいて、幻想的に、夢の中の映像を見ているような感覚に
陥っていた。(空きっ腹にビールを飲んだからか?)

日本では、花火というと夏を思い出すが、
ヨーロッパなどでは、季節を問わず、何かお祭りやお祝い事があると、
花火を打ち上げることがある。
大晦日から元旦に時が移る時などに、
町のあちこちで、一斉に花火が大音響と共に、上がったりする。

フランス時代のこと。
日本の除夜の鐘のように、年が変わるタイミングに、
教会でミサをあげたりするのだが、
その年は、年末年始を、ローマだったかロンドンだったかで過ごしており、
何人かの仲間たちと、チャペルに集って静かに年を越そうとしていた。

そんな時、
東西南北至る方向から、新しい年を迎える喜びの花火の音が、
鳴り響いた。

パーン、パーン! どーーーーん、どどーーーーーん。

その音は数分間鳴り止む事なく、腹に響くような振動を伴って、
続いたのだった。

チャペルに集っていた仲間の中には、
当時、まだ戦争の傷跡が生々しかった旧ユーゴスラビアの出身者や、
武器を用いて戦う本当の戦争を、自分の体験として知っている者たちがいた。

鳴り続ける花火の音を聞きながら、
彼らはこの音を聞いて、
自分や家族たちの身の上を襲った、あの戦争を思い出したりしないのだろうか?
そんなことを考えていた。
そう思って、周りを見渡しても、
特別、激しい音に怯えている様子を見せる者もおらず、
案外とみな、そういう経験に対して、淡々としているものなのか、と、
勝手に解釈などしてしまっていた。

しかし、今思えば、
本当の銃砲の音など聞いた事の無いわたし、Giovanniの想像が、
拙いだけで、
人を殺す能力を持つ音は、
もっと凄まじいものなのだと知恵を働かす事ができる。

今日も、今も、そしてこの瞬間も、
レバノンでは、砲火と炸裂する銃弾が、生きる人間を襲っている。
そして、世界地図上の多くの国や地域で、
いくつもの戦火が燃え上がっているのは、現実である。
わたしたちの町からすれば、遠くに霞んで見える花火のように、
ぼんやりと、幻のようにしか見えない戦争は、
現に多くの人たちの命を奪っているのだ。

対岸の花火を眺めながら、
そんな事を考えていて、やるせなくなった。
飲み終わったビールの缶を、握り潰したくなった。

自分を慰めようと、思いを巡らしている内に、
確か、花火には、何かそういう意味は無かったかという思いに辿り着き、
帰宅して調べてみたところ、
日本の打ち上げ花火の歴史にこんなことが書いてあった。

『1733年、関西を中心に飢饉に見舞われ、
江戸ではコレラが猛威を振るい打数の死者を出した暗い世相の中、
将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り
両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、
それに合わせて大花火を披露し、
これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われている。』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
とのことで、花火には、慰霊の意味もあるようだ。

やるせなくなった気持ちが、これで少し和らいだ。

平和と和解の記念日

6日、9日の広島と長崎の原爆記念日、
15日の敗戦記念日と、
8月は、忘れてはならない記念の日が続く。

そんな中、
8月16日もまた、わたし、Giovanniにとって、
そして、世界中にいる多くのわたしの友人たちにとって、
決して忘れてはならない、記念の日である。

それは、昨年の8月17日の午後だった。
仕事が休みで、いつものように、泳ぎに行き、
ゆるゆると過ごしていた夏の午後。
携帯が小さく音を鳴らし、メールの受信を報せた。

メールの送信元は、Marie-Christine。
フランスにいる友人からで、
ある人の死を報せるメールだった。

亡くなったのは、
その同じ年の春に、90歳を祝ったばかりの人で、
ここ数年は、近い将来、その人とのお別れのときが来ることを、
心の片隅で、ぼんやりと意識はしていた。
とは言え、彼が昨日亡くなったというそのニュースは、
わたし、Giovanniの胸をぐっと締めつけた。

彼は、わたし、Giovanniが2年間生活をした、
communaute(共同体)を、今から66年前に創設した人物であり、
亡くなった当時も、高齢でありながら、
そのcommunauteの指導的立場として勤めていた。

彼がそのcommunauteを創始するに至った、
きっかけの一つとして、
当時、ナチスの弾圧を受けていたユダヤ人たちを匿ったり、
戦争によって、親を失ったこどもたちを受け入れる、など、
人間としての連帯の心を、具体的に行動として示したいという
彼の情熱があった。

同時に、
同じキリスト教を信じる者でありながら、
敵対する国同士、お互いを傷つけ合い殺し合うという現実に、
心を痛め、
今こそ、キリスト教徒が一つになって、
平和と和解の一つの印となるべきだ、という熱意をも、
彼は持ち合わせていたのである。

彼は、その生涯を、
人間の様々なレベルにおいての、和解すること、について語り、
その和解の実現に向けて働き続けた。
親子や兄弟姉妹、友人たちとの間での和解。
国と国との和解。
思想や宗教によって分裂した民族間での和解。
或は、自分と、自分の中にいる本当の自分との和解。

彼の死のニュースは、
そのまま、彼に最も近しかったcommunauteの人たちへ、
メールを送るべく、
わたし、Giovanniを、インターネットカフェへ導いた。

フランスのニュースサイトに、
彼の死の詳細が掲載されているやも知れないと、
心当たりのページを開いて見て、
わたしは、呆然となった。
『精神的な病いを持ったと見られる女性に刺殺』と、
記事にはそう書かれていた。
しかも、communauteで一日3回、
チャペルで執り行われる祈りの最中に、
大勢の人たちが、その場に居合わせた中、
背後から、刺され、即死だったというのだ。

それは、まさに、誰にも思いもかけない突然の出来事だった。

わたし、Giovanniを含め、彼を知る多くの人たちが、
突然、全ての明かりを吹き消されたかのように、
目の前が暗く閉ざされた気持ちだった。

しかし、予想だにしなかった彼の突然の死は、
同時に、大きな目に見る事のできない財産を、
わたしたちに残してくれたことに、
わたし、Giovanniも、そして多くの仲間たちも、
直ぐに気がつかされたのだった。

戦争を憎み、あらゆる争いや暴力、弾圧を忌み、
全ての場所に平和と和解を、と、願った彼の生き方を、
引き継いで行くことを、固く誓ったわたしたちは、
平和と和解を望み願う気持ち、という宝を、彼から受け取ったのだ。

わたし、Giovanniも、
自分の生きる社会の中で、職場で、
平和と和解のしるしとして生きていきたい。
そう、思って止まない。

***********************
追記

ここに紹介した人物は、
フランスにある共同体、
Communaute de Taizeの創始者であり、
亡くなるまで、その責任者を果たしたFrere Rogerのことである。

彼の働きは、
共同体の創設から永年の間、
誰からも認められるような表立ったものでは
決してなかった。
むしろ、
孤独に打ちひしがれている老齢者ばかりが暮らす寒村を、
共同体の場所として定め、
静かに、黙々と暮らす、共同体生活だった。

ただ、中世以降の多くの修道院などが、
高くそびえる塀を巡らした中で、
外界と遮断された環境を住処としたのとは違い、
むしろ、積極的に、世界の現実と向き合い、
当初から、東ヨーロッパ諸国の弾圧された人たちとの
連帯を築いてきた。
一説によると、ベルリンの壁の崩壊には、
彼の共同体が、大きな役割を果たしたとも言われている。

社会に大きく見開かれた目と、
静かに、自分の内面に語りかけられる言葉に傾ける耳の
両方を合わせ持つ、彼の共同体に、
ヨーロッパ各国から、青年たちが訪れるようになったのは、
1960年代の後半、
世界が大きく変わり始めようとしていた時代だった。

戦後のヨーロッパが、物質的に豊かになりつつある反面、
多くの青年たちが、生きる目的を見失い、
心を寄せる拠り所を見いだせないでいることについて、
Frere Rogerは大いに嘆き、
自分たちの共同体へ、青年たちを迎えることを始めた。

迎えられた青年たちの多くは、
自分たちと同様に、
進むべき道を知らず、途方に暮れる人たちとの出会いの中で、
或は、ヨーロッパのみならず、アジア、アフリカ、南米などの
国々からやってきた、主に南半球の国々が抱える、
経済的貧困、政治的混乱の中で生きる人たちとの出会いの中で、
自分に何ができるのか、
何を分ち合いながら生きて行く事が自分に望まれているのか、
を、見いだすきっかけを、この共同体で発見し、
それぞれの国で、社会で、家庭で、
新しく歩み始めるのである。











写真はありし日のFrere Roger
彼は、幼いこどもたちを常に
見守っていた

火曜日, 8月 08, 2006

Cute and Muscular German Swimmer Helge Meeuw

超きもちいい〜!

金曜日, 8月 04, 2006

26万人分の2260人









第2次世界大戦が、どのような形で集結を迎えたかを、
覚えているだろうか?

8月15日に敗戦を認めた日本は、
8月6日の広島、9日の長崎、と、アメリカから
原子爆弾の投下を受けた。
これによって、アメリカは、あの大戦を、強制的に終わらせた。

あれ以上、戦争が続けば、
アメリカは、日本の国土に上陸し、
戦争の犠牲はもっと大きくなっていたはずだから、
原爆の投下は、正しかった、と、主張する人たちもいるようだが、
わたし、Giovanniは、その意見には同意する事はできない。

あの戦争の終結から、何年が経ったのだろうか?
今日、広島地方裁判所で、
原爆投下後に、被爆地域に進入した上で被爆し、
原爆症と見られる症状を発した人を、原爆症とは認めない、
とする国の主張を退け、
41人の原告が、全面勝訴となった。
26万にいる、存命する被爆者の内、
国から原爆症の認定を受けている人は、2260人。
たったの、1%である。

わたし、Giovanniの叔父Sは、当時、鳥取在住であったのが、
何かの試験を受験するため、広島市を訪れていた。
友人と3人で、宿をとり、
その朝、試験会場へと向かうべく、8時10分少し過ぎに、
3人で揃って表へ出た。

Sは、そこで忘れ物に気がつき、宿へと引き返した。

ピカ------------! ドーーーーーーーン!

8時15分、人類史上初の、原子爆弾が生きた人間の住む
都市の上に投下された。

Sを外で待っていた二人は、その存在の微塵のかけらも残さず、
消えて無くなり、
Sは、呆然とそこに取り残されたのだった。

わたし、Giovanniの母から聞いた話ではあるが、
祖母は、Sの骨を拾いに行く、と、
広島へ旅立つ身支度をしている矢先に、
ボロボロになったSは帰宅する。

この叔父Sにとって、
友人二人は、亡くなり、自分だけが生き残ったことに、
大きな罪の意識を覚え、
永年、その苦しみの中、自分の原爆体験を、
一言も語る事は無かったと言う。

その青白い炎が、原爆の光を思い出させるからと、
花火を嫌がる夏を幾つか通り過ぎ、
Sは、ある時、大きな方向転換をすることとなる。

自分が語らなければ、誰があの原爆の恐怖を語るのか?
あの過ちを二度と繰り返すことのないように、と、
わたしが叫ばすして、誰が叫ぶのだというのか?

そこから、
S叔父の、No more Hiroshima! No more Nagasaki!への
熱い思いが、スタートする。

多くの被爆者がそうであるように、
S叔父も、その後、めまいや身体の大きな不調に見舞われ、
原爆症の症状が、彼を苦しめ始め、その苦痛は今も続いている。

昨年、S叔父を数年振りに訪ねる機会があった。
いつものように、たくさんの資料や、文献や、手紙などが
散乱する書斎で、叔父は、ある事を語り始めた。

叔父が、奇跡的に助かった宿に、
当日、やはり滞在していたという男性の家族という人から、
突然便りをもらったという話だ。

その男性というのは、
永年、自分が被爆者であることを、
家族にさえ伝えることなく生きてきたという人だったが、
晩年、家族の知る所となった。
この人自身も老齢となり、
ご家族が、幾つかの保障の便宜を享受することを望み、
今となって、被爆者の認定を受ける事を希望されているという。

そこで、その男性が、あの日、確かに広島のなにがしという場所に
いたという証言をする事のできる人物を捜していたところ、
S叔父に行き当たったということらしい。

叔父としても、証言をする事は構わないと言え、
何しろ、数十年も昔、言葉すら交わした事もない、
ただ、偶然、同じ宿に宿泊していただけの、その人を、
いかに証言することができるのか・・・
叔父は悩みに悩んでいた。

あれから、これだけの歳月が流れても、
未だ、あの日受けた大きなダメージに、苦しみ続ける人たち。
彼ら、彼女らが、広島に、長崎に
そして、わたしたちが知らないどこかに、いる。

今日の判決は、長い道のりの、ほんの少しの前進かも知れないが、
No more!と訴え叫び続けることが、
苦しみを和らげることに、つながるのだと信じたい。

木曜日, 8月 03, 2006

夏のしるし











巷でも、今頃になって、
マクロビオティックがブームみたいになってるけど、
わたし、Giovanniと、マクロビオティックとの出会いは、
もう20年以上前。

現在、日本の、と、同時に、
世界の、マクロビオティック界の先頭に立つのは、
久司道夫氏であるが、
そもそもは、桜澤如一が、この体系を作ったことは、
今となっては、あまり語られることがない。

そして、
その、桜澤をインスパイアしたのは、石塚左玄の哲学。
彼の哲学の中に、身土不二という考え方がある。
身体と土地は、切っても切れない、
深い関わりがある、という哲学である。

食べ物という事で言えば、
自分の住む土地で収穫する食べ物を食べるべし、
ということになる。
人間の身体の健康は、その人の住む土地と、
大きく関係がある。
その土地の水を飲み、
その土地から養分を吸った野菜を食う。
よって、水や野菜に含まれるミネラル分などは、
土地土地によって違うのであるから、
身体も自然と違ってくる。

また、その季節に本来収穫する食べ物を食べよ、
とも言っている。
昨今は、野菜も温室で育てるから、
年中キュウリもナスもあるけれど、
本来は、夏野菜。
水分をたっぷり含み、身体を冷やす効果のある野菜である。

わたし、Giovanniの家では、
ナスは、梅雨明けしないと決して食卓に上らない。
スイカも然り。
本来は、夏にしか食べることのできない野菜、果物だから。

ナスとスイカを見たら、それは、夏のしるし。

水曜日, 8月 02, 2006

部活














中学に入学して、最初に決めなくてはいけなかったのは、
何部に入るかだった。
父がそうだったから、というだけで、
門を叩いたのは、卓球部。
しかし全く、練習に参加した記憶はなく、いつの間にか辞めていた。

転校先の中学では、やはり、
父の影響を受けて、ブラスバンド部。
入部初日、西向きの音楽準備室で、
マウスピースの使い方を教わりながら、
ハチブセ山に沈んで行く、夕日を見ながら、
何となく、うら寂しくなって、次の日に退部。

高校は、自分から望んで、合唱部に。
結構続いたけど、
途中から、音大入学準備部の傾向が強くなり、
関係の無い、わたし、Giovanniとしては、とっとと退部。

要するには、団体行動が苦手なのか、
根っからの一匹狼タイプなのか、
部活は、苦手だった。

そんな、わたし、Giovanni。
この歳(どの歳?)になって、一人部活中である。
はい、一人水泳部。

今日は、プール滞在時間7時間。
4000メートルまでは、数えてたけど、
それから先は、数えてない。
今日、一日でどれくらい泳いだのだろう?

泳ぎ始めた3年前から、
どちらにせよ、一人水泳部だけれど、
ここんところ、力が入っている。
目標を立てたからだ。

2年越しの悲願である、バタフライの習得。
これを、8月中に、達成するのだ!
職場の、水泳経験者たちの前で、
片手を揚げて、やる!と、宣言してしまったので、
これは、やるしかないっしょ!

やります!
絶対に、やる!
乞うご期待!

日曜日, 7月 30, 2006

ウラをかいて















心理サスペンスドラマなどを見ていると、
捜査官とか、刑事とか、はたまた、家政婦などが、
犯人の、ウラのさらにウラをかいて、
事件のトリックを見破ってしまう結末がある。

先週の水曜日だったか、
長雨が続いた久しぶりの快晴の日、
わたし、Giovanniは、みんなの期待通り、
屋外プールへ泳ぎに行き、
また黒くなったね、の、最高の褒め言葉を頂戴した。

その後、あと数日降って、いよいよ来週前半には梅雨明け!と、
予報は言っているが、
今日も朝から、時折雲がかかったりしつつも、よく晴れている。

さて、本日の、わたし、Giovanniの活動は?
次の中から、コレ!というものを選択せよ。

1 家でゴロ寝
2 プール
3 PCの前でぐだぐだ
4 太陽と戯れる
5 昼間っからビール
6 温泉
7 掃除
8 洗濯

正解は、2以外。

今日は、爽やかで、泳ぐのに絶好な感じもしたけど、
あえて、プールには行かず、
家中の窓とドアを開け放して、
風をびゅーびゅー通しながら、過ごした。

ソファーカバーやクッションカバーの洗濯をしたり、
霜で大変なことになっていた、
冷凍庫の霜を、ナイフと金槌で、こそげ落としたり、
合間、多摩川まで、自転車をこいだり、と。

あ、もちろん、ビールもいただきました。

真夏のこういう過ごし方、大好きだ。
どこかに特別出かけないで、家の周りで、
楽しく、涼しく過ごす。
ご近所で、無人販売している、
そこの畑で穫れた夏野菜を買って来て、
ラタトゥイユなんかを作って、
冷たい白ワインを飲んだりする。

東京を遠く離れた島の暮らしもそうだったけど、
南インドや、イタリアのかかとにあるBariという町も、
もっともっと、ゆったりと、時間が流れていて、
人間の本当の体時計にぴったりだった。

東京にいながらも、
休みの日は、そういう暮らし方が、
意外にできるのを、
みんなは、知ってるだろうか?

え?温泉は行ったのかって?
行ってないけど、ビーサンはいて、
夕方から行ってきます!

木曜日, 7月 27, 2006

親切不親切

世の中、どんどん進化してます。
そして、便利になってます。

進化=便利、と思っているのは、
メーカーさんや、広告屋さんだけで、
小さな機会に、何十もの機能をギューギュー押し込んで、
ほら、便利でしょ?凄いでしょ、と、おっしゃるが、
1億1千万人の内、一体何人が、そう思っているのか?

先日ニュースで見た、こんなピクトグラム。



市販薬のパッケージなどに印刷して、
服用方法の間違いなどを減少させるのがねらいらしい。

ちなみに、これは、
『車の中で服用してはいけません』

じゃあ、これは?


『臭い薬だから、鼻をつまんで飲みましょう』

うそうそ、最初のが、この薬を飲んで車を運転してはいけない、で、
下のが、おしりから入れる(座薬)である。

ピクトグラムを作った人としては、
考えに考えた結果の作品なんだろうけど、
こういう絵柄を見て、
そのメッセージを、どれだけ正しく読み取る事ができるのか?
字が添えてはあるが、外国人には分からないし、
目の見え難い、高齢者はどうなのさ?

便利さの押し売りは、親切?それとも不親切?

まだ、うら若い(24歳かな?)、
友だちの日記に、こんな一文を見つけた。

『今日利用者のおじいちゃんに呼ばれて、
”はいこれっ”って一枚の色紙(画像)もらっちゃいました(^・^)
うれしいね!!何回もありがとうっていいましたw
このおじいちゃん、糖尿病による網膜症でほとんど目がみえないねん。
移動も白い杖で歩いてて。
日中は居室にこもってて絵を描いてるんやけど、
文字を見るときも3センチくらい目を近づけて見るくらい。
そんなおじいちゃんが、一生懸命描いてくれた色紙大切にしないとねw

”小さな花、かわいいタンポポ、未来の喜び”
左のエンドウは俺の誕生日の花。花言葉は”未来の喜び”

俺の未来に喜びはあるんやろうかは疑問ですがw
介護の仕事は、給料安いし報われない事も多いけど、
一番人に”ありがとう”って言ってもらえる仕事やと思う。
つい”ありがとう”って言葉に慣れ過ぎてしまって、
ただただしんどい仕事に思えてしまう時もあるけど、
こういう時この仕事の価値が見出せる。(・・・・・)』

何でも進化させて、独りよがりな便利を押し売りする必要が、
果たしてあるのか?
この、介護に従事する青年と、おじいちゃんのやり取りに、
何かの真実が見えて来ないだろうか?

水曜日, 7月 26, 2006

久々のアドレナリンスイム














↑本文とは関係ありません!

行ってきたでぇ!
今年初の屋外プール。場所は、埼玉県某所。

えー!埼玉県まで?
と、言われるけど、東京のちょい先は、埼玉県です。
移動時間40分くらいで、到着。

梅雨の合間の晴れだったから、
おこちゃまをお持ちのご家族も、
不意打ちを食らって、
こどもたちをプールに連れて行く知恵が、回らなかったんでしょうね。
全体的に、すいてました。

そこのプールは、
いわゆる、こども向けプール
(スライダーとか、流れるプールとか)と、別に、
50mの競泳用プールがあって、
そっちは、ホントにすきすき!

滞在時間、約5時間。
途中、休み休み、日に当たりながら、
多分、3000m(3Km)は、泳いだと思う。

8レーンある内の、1レーン、ほぼ貸し切り。
対向スイマーを気にする事なく、
悠々と、リラックススイム。

アドレナリン、爆出!

やっぱり、止められません。
例え、埼玉でも、行きます!
これからも、どんどん!

そんな気配が!












昨夜の天気予報で、おねえちゃんが言ってたように、
今朝は、東の空が明るい。
お天道様が、上ってらっしゃる気配!

つ、ついに!何日ぶり???
こうやって、朝の柔らかな光を浴びるのは!

もう、7月も終わろうというのに、
肌寒く、どんよりと曇ったり、しとしとと降ったりの日々。
去年の今頃なんざ、ガンガンに夏まっただ中だったはず。

今日は絶対、何が何でも行ってやる!
屋外プール。
燦々と降り注ぐ太陽のもと、冷たい水の中を泳ぐ
あの心地よさを、今年も、この夏も、早く感じたい!

行って来ます。

火曜日, 7月 25, 2006

fructueux

わたし、GiovanniのBlogger仲間(って呼んでも良いのかな?)の
cavacavienさんの、”あまいものとあまくないもの”については、
随分前に、ちょこっとここに書いたはず。

検索⇒検索中⇒⇒ココ、クリック!

今日、覗いてみたら、
flickrのぱらぱらマンガみたいなの(何て呼ぶの?)
うちのブログにもついてるでしょ!写真が勝手に動くやつ。
あれが、なくなって、桃の頭頂部写真に変わってた。

flickrへ飛べるようになってたから、
飛んで行って見てみたら、
素敵、素敵!

フルーツいっぱいの写真集になってました。

ジメジメしとしとを吹き飛ばす、
爽やかで甘い香りが漂うようです。

ご賞味くださいませ!

追伸:cavacavienさんの写真は、とっても素敵だから、
あえて、わたし、Giovanniのブログには、
今回は写真無し!

月曜日, 7月 24, 2006

Rinka - XXX(Millions Kisses)

この人、あんまり好きじゃなかったけど、
コレは、能天気で、意外にOK!
ジメジメした日々に、案外、爽快!

心配なこと

わたし、Giovanniの周りにいる、
何人かの友人たちの事が心配だ。















心配の内容が、デリケートなので、
ここで詳細を語ることは控えるが、
ストレスや、何かしらの重圧の中で、
もがき苦しむ彼ら。

彼らの重荷を、取り除く事もできず、
また、最も相応しい、魔法のような言葉を見つけて、
彼らにかけてあげることもできず、
ただ、遠くで、近くで、
彼らを見守ることしかできないでいる。

ここの日記でも、度々、
繰り返して言ってきたが、
思い続けること、自分の意識の中に、
他者を留めておくこと。
そこに、何かわたしたちの目には見る事のできない
力が働くということを、
わたし、Giovanniは、信じて生きてきたし、
これからも、それを信じている。

彼らの今日が、今晩が、そして明日が、
少しでも、安心と平和に満たされるよう、と、
祈って止まない。

日曜日, 7月 23, 2006

だばだー、だーば、だばだー、だばだー


ここ数ヶ月歯科治療を受けている。
ご近所にある、歯医者さんで、
60がらみの、先生は、大層熱心なお方。
予約不要、平日午後9時まで、日曜日も治療をなさる。

反して、わたし、Giovanniは、
典型的なダメ患者で、
痛みさえ無くなれば、どんな治療も途中ですっぽかしてしまう。
せっせと数週間通っていたのに、
ある日、もう、いいか、と思ったら、
次の通院まで、数年ほったらかしたこともある。

先月、西表への旅行のこともあり、
実は、先生、来週1週間旅行なんです。
痛みが出ないよう、何とかお願いします、と、
またもや、お気楽患者のたわけを伝えたところ、
はいはい、と、承知していただき、
そのおかげでか、旅行中、
歯のことなんか、忘れるほどであった。

ほー、西表ですか?
いいですねぇ、珍しい魚なんかがいるんでしょうね?
と、南の島に感心がおありだったのか、
その後も、いいですねぇ、を繰り返され、
旅行後の治療でも、
ヤシ蟹なんていうのを食べましたか?だの、
イリオモテヤマネコは見ましたか?だの、
治療の前後に話をされるようになった。

診察室や、待ち合い室を見回すと、
絵画の趣味をお持ちのようで、
ご自分の名前のサインが入った絵が、数点、
掲げられている。

治療中は、
助手の女子たちにも、大きな声を荒げたり、
治療の技は、大変優れていらっしゃる、
いかにもな、歯科医師であるが、
口の中を照らす、
独特な形のライトのスイッチが切れている時は、
砕けた、ニコニコしたおじさまという感じだ。

ある日、診療椅子に座って、天井を向き、
大きく口を開けたところ、
何の脈略があったのか知らないが、突然、
Giovanni君の、そのヘアースタイルは、
いくらくらいかかるの?と、尋ねられた。
ちょうど、この時だったと思う、
旅行の前で、それまでもそこそこは短かったのを、
さらに、一気に短くした時だったので、
先生の目に止まったのだろうか?

また、数日、ご無沙汰してしまった医院の扉を開くと、
今日は誰も他の患者がいないらしく、
奥から、先生の声で、どうぞ、とすぐに呼ばれた。
こういう静かな日に、お好きなのか、診察室に流れている音楽は、
何故か、ヨーデル。
いつもの診療椅子に体を横たえ、口を開けようとしたら、
先生が、またこんなことをおっしゃった。

Giovanni君は、誰かに似てるって、言われたことありませんか?
ほら、あの演出家の・・・
(演出家と言われて、和田勉を想像してしまった!)
・・・何とか亜門、に似てるって言われませんか?

実は、これは何度か言われたことがある。
自分では似てるとは思わないけど。

そう言えばおととい髪をさらに短くしたところだった。
もっと身近な人たちだって、髪を切った事に気づかない奴もいるのに、
先生、人の髪型に敏感であられる様子。
まさに、髪の違いの分かる男。
だばだー、だーばー、だばだー、だばだー

木曜日, 7月 20, 2006

雨、まだ降り止まず

もう何日、太陽の光を見てないだろう?
ここ、数日、雨、雨、雨・・・

インドネシアで、再び地震があり、津波による被害で、
また、犠牲者が出た。
前回の地震後、インドネシアへ、急遽、帰国した、
フランス在住のインドネシア人の友人、Totokによる、
ジャワ島は、今、
地震被害からの『避難』の時期を終え、
ようやく『復興』の時期へと移り変わりつつある、という、
リポートを聞いた直後のタイミングだっただけに、
追い打ちをかけられた感を否む事ができない。

阪神淡路の大震災の時もそうであったが、
『避難』生活は、ある種の緊張感と、
人間としての”生き続けたい!”というヴァイタリティーに満たされるのか、
避難者も、案外、当初は、元気に生活をすることができる。
しかし、2、3ヶ月も避難民としての生活を続けると、
これから復興の機運が高まるという頃に、
肉体的、精神的にも、疲労が極限に達し、
体調を崩したり、鬱状態に陥ってしまったりすることが多いらしい。

今回の、日本列島各地の大雨の被害も、類を他に見ないほどのようだ。
たかが雨、と、油断していて、
大きな被害に遭ったり、怪我をしたり、亡くなった方も、少なくはない。

以前、N◯Kでも放映していた、
アメリカの連続ドラマ『ザ・ホワイトハウス』の、
再放映の昨夜のエピソードは、なかなかの秀作だった。

現役大統領ジェド・バートレットは、
学生時代、自分の父親が校長を勤める学校に、特待生として通っていた。
その当時、父親の秘書をしていた女性を、
(彼女は、自分のことを必ず、ランディーハムさん、と、呼ばせた)
大統領着任以来、彼は自分の秘書として雇っていた。
若い頃の彼に、男女平等を説き、
弱い立場にある者の為に尽くすことを教えた彼女。
秘書としても大変有能だった、大切な存在である彼女が、
ある日、初めて買った新車を取りに行くのだと、喜んで出かけた直後、
不慮の交通事故で亡くなってしまう。

彼女の葬儀が、厳かにワシントンの大聖堂で執り行われ、
その式後、大統領は、護衛官をも締め出し、独り、大聖堂の中で、
神に語りかける。

『何故だ?わたしは、今まで、あなたを信じて従ってきた。
なのに、何故だ? これはわたしの罪への酬いなのか?
これ以上もう(あなたのことは)知らない。』
そして、おもむろに内ポケットから煙草を取り出し、
火を点け、聖堂の床に落とした煙草を足で踏み消し、聖堂を後にする。

実は、大統領は、ある事実を隠しており、
これが、次の大統領選出馬を危ぶむ原因となっている。
アメリカという大国を担う大統領である自分が、
難病の持ち主であるという事実を隠蔽し続けてきたのだ。
これを、彼自身、自らを揶揄するように、罪と呼んだのだった。

神の存在を信じる、信じないは、自由選択として、
わたしたちの人生の上で起きる、
悲しく辛い出来事や、納得いかない不条理な出来事。
このような困難や困惑に直面した時に、
わたしたちは、どのようにそれを乗り越え、克服すれば良いのだろう?
時が解決するのを、ひたすら待てば良いというのか?
誰かが、何か手を打ってくれるのを期待していれば良いのか?

ドラマの中で、大統領は、この葬儀の後に、
自らの病いについての公式な発表を控え、
また、次の大統領選に出馬するかどうかの意志を表明する、
大きな記者会見を迎える。
大切な善き理解者だったランディーハムを亡くした喪失感と、
大統領選出馬への、極限の迷いの中で、
大統領は、彼女の幻を見る。

交通事故は、神様のせいじゃない。
わたしの死を言い訳にしないで欲しい。
大変だから、負けるかも知れないからと、
次の選挙に出馬しないというのは、卑怯な態度だ、と、
彼女の幻に、学生時代と同じように叱咤激励を受ける大統領。

雨が降りしきる中、私設秘書が差し出すコートを受け取る事もせず、
雨に打たれながら、会見場へ向かう車に乗り込む。
同席の主席補佐官レオにも、ただ沈黙を守る。

(この辺りから、沈黙の中、緊迫したシーンが続くのだが、
ここで、1970年代後半にデビューしたイギリスのロックバンド、
ダイアー・ストレイツの『ブラザーズ・イン・アームス』という曲が、
印象深く流れる。)

いよいよ、会見に臨む大統領。
報道官のCJには、最前列右端にいる医療関係新聞の記者を
最初に名指しするよう、くどいほど忠告されていた。
それによって、最初の質問は、医療関係の話題となり、
冒頭から、大統領の進退問題に集中することを避ける事ができるから、
だというのだ。
だが、会見場に到着するや否や、別の記者を指名する大統領。
ここで、記者は、ストレートに大統領へ質問する。
次の大統領選には、出馬するのか?と。

大統領を取り巻く側近たちの表情に、さらなる緊張感が見える。
大統領は、一体、何を決断しているのだろう。

テレビモニターを通して、大統領の表情を見つめていた、
主席補佐官レオは、大統領との、40年来の盟友関係の経験から、
大統領の一瞬の表情を読み取り、思わず、やるぞ、と、声を出す。

そして、その次の瞬間、
大統領は、両手をズボンのポケットに入れ、
口元に、微かな笑みをたたえた。

アメリカの多くのシリーズものドラマにありがちな、
最終回の幕引きは、ここで終わっている。
もちろん、この後、次のシーズンで、
大統領が何を決断したのかは、明確になるのであるが、
ここでは、それを明らかにせずに、終わっている。

しかし、このエピソードを丹念に見ていれば、
大統領が下した決断を、知る事ができるヒントが隠されている。

大統領とランディーハムが若かった頃のシーン。
男性教師と女性教師の給与に大きな差があることに、
問題意識を感じたランディーハムは、
若きジェドに、この問題を自分の雇い主である、ジェドの父親に、
問題提起するよう訴える。

ジェドは、それが問題であることは認めながらも、
それを行動に起こすことを渋る。
そのジェドに、彼女は、
困難だからと、やらずに逃げるのは卑怯だ、と、一喝する。
その言葉に、大きく心を動かされたジェド。
おもむろに、両手をポケットにつっこみ、口元に笑みを浮かべる。
あなたが、その格好をしたとき、それは、
やるということを決めた時だわ、と、
ランディーハムは、にこやかにジェドに微笑みかけた・・・










*写真は、ジェド・バートレット大統領役の
マーティン・シーン


雨は、まだ降り止まない。
しかし、必ず晴れる日はやって来る。

火曜日, 7月 18, 2006

(お試しバージョン)日本文化研究家 慈恩 灯慧流(ジャン・ピエール Jean Pierre)

本文と写真とは、何の関連もございません。


皆サマァ、コンバンワ。

ワ・タ・ク・チ・ノ名前ハァ、ジョン・ピエー(レ+ゲ)ト、モシマス。
ワタクチハァ、ウ(ル+グ)イィ、ニオンノォ、
ブ・ン・カ・ト・ユ・物ニィ、ムカチカ(ラ+ガ)、タイエン、
アコギャ(レ+ゲ)ヲ、イダイテオ(リ+ギ)マシタ。



ゼン、チャノユ、ブシドー、アカマイ(リ+ギ)・・・
ソコニハ、イトツノ、筋道ギャ、シッカ(リ+ギ)ト、
セ・ン・ジ・ン・達ノ、足跡ニヨッテ、
ツケ(ラ+ガ)(レ+ゲ)テイ(ル+グ)ノヲ、
ワタクチハァ、タイエン、ソンケシテオ(リ+ギ)マス。

ワタクチトォ、ニオンノ、最初ノ出会イハァ、
パ(リ+ギ)デ、ソノ道ノイトト、
シ(リ+ギ)合ウ事ニナッタトコ(ロ+ゴ)カ(ラ+ガ)
アジマ(リ+ギ)マシタ。

ソノ道ノイトトイウノハァ、オモノイトノ事。
オモノイトハ、トテモ優シイノデ、
ワタチモ、ソノ、優シサニイカ(レ+ゲ)テ、
ソノイトト、仲良クナッタノデス。

Non! non! non! non! non! non! non!
ワタチジシンハァ、オモデハ、マッタク、ア(リ+ギ)マセン!
jamais pas !

ワタチニハァ、コイビトガイ(ル+グ)。
ワタチハァ、カノジョヲ、トテモ、ココ(ロ+ゴ)カ(ラ+ガ)、
愛・チ・テ・イ・マ・スノデス。

ブシドー的ナ、発想デハア(ル+グ)カト、思イマスガ、
男タ(ル+グ)モノ、女ヲ、守(ラ+ガ)ズシテ、
ドナ(ル+グ)トイウノデショカ?

(ヤダヨヤダヨ、セクスナンカシテナイ。
純潔ヲ、オ守(リ+ギ)シマショト、ヤ・ク・ソ・ク・チタ。
手モニギテナイヨ。)

今、ワタクチハァ、潔ク、皆様ノマエデェ、
タカ(ラ+ガ)ニ、言イタイト、思ウノデス。
ワタクチハァ、ニオンジンノ心ヲモッテ、
イツカ、ニオンジン、ナ(リ+ギ)タイト、思テイマス。

ドーゾ、ヨ(ロ+ゴ)チク、オ願イタチマス。
swimming is wonderful!

イアン・ソープ、泳いでます!