
キリスト教を基盤とした西洋の文化や哲学では、
善=光、闇=悪、という公式が、
歴然と成立している。
全て正しく良い事象は、光に端を発し、
その逆は、闇から来るというのだ。
イエス・キリストは、
世の闇を照らすために来た、光である、と、
キリスト教の信仰では教えられている。
日本を含め、東洋の文化や哲学には、
白は白、黒は黒、ではない、
曖昧なグレーの部分を認める姿勢が、
しばしば見受けられる。
陰陽哲学のシンボルとなっている、
巴の印は、
陰の中心に陽が存在し、
陽の中心に陰が存在する、という哲学を、
具体的に示している。
人が、心に闇を持った時、
恐らく、西洋社会では、一般的に、
その闇をすっかり拭い去るための手だてを考え、
仮に、それが不可能であるのならば、
ありったけの光を闇に照らして、
闇があることを気づかないようにするかも知れない。
今までそのような経験が全く無かったわけではない。
生きている日々、歳月が、長くなればなるだけ、
それらの日々や歳月が、
決して、常に明るく光り輝いているばかりではない、
ということは、周知の上である。
何度も、真っ暗な闇に打ちのめされ、
立ち直ることが出来ると信じるのさえ、
不可能だと思うような出来事に遭遇してきている。
心に影を落とす闇が、
季節の逡巡と関連があると断言するには、
いささか科学的な根拠を欠くかも知れないが、
太陽の日差しが薄れ、闇の夜の長いこの時期、
わたし、Giovanniの心には、重くて厚い闇の雲が垂れ込める。
冬眠ホルモンなる物質の存在を、
漠然とは知っていたが、
そういう物質がわたしの体内にも必ずあるということは、
確信であった。
できることならば、夜の長い冬の間中、眠ってしまって、
気がついたら陽光眩しい春を迎えていたい、
という願望は、常に持ち続けてきた。
長い夜は、ときに、辛く寂しく、
何か行き場を失ったような息苦しささえ感じさせる。
10年くらい前だっただろうか。
夏が去り、かろうじてまだ夕方の儚い光を、
暫くは味わうことの出来た秋が終わり、
突然、つるべ落としのように夜が訪れる季節になり、
わたし、Giovanniは、
生まれて初めての、心の闇を体験した。
理由も無く、何の脈略も無いのに、
ただ、悲しくて、
仕事から帰宅した部屋に明かりを灯すことすらできず、
冷えて、真っ暗な空間で、
独り泣き叫ぶことしかできなくなった。
その深い闇の中で、
問いかけ続けた、
『わたしは誰なのか』『何のために生きているのか』
という、究極の疑問。
こんなに、一生懸命生きているのに、
なぜ自分は満たされず、喜ぶことが出来ないままでいるのか、と、
夜になる度に、闇に訴え続けた日々。
わたしのその心の闇を、破る光は、
ある日、やってきた。
冬至。
一年でもっとも夜の長い日。
その日が終わり、
今日からは、太陽の日差しを浴びることの出来る時間が
少しずつとは言え、長くなる、
その日を迎えて、
わたしの心は、闇の苦しみと決別することが出来たのだった。
闇と光について思うとき、
わたし、Giovanniは、
闇こそが悪、という西洋的な哲学によりは、
闇の中の究極な部分に光が存在すると考える、
東洋の哲学に、より相容れることのできるものを感じとる。
闇を知り得たからこそ、
光がいかに優れていて、貴重な存在であるかを、
理解することができる。
また、光の降り注ぐ、
人間が生理的に本来の命を、もっとも活動させることのできる
環境は、
夜の闇の休息の時間があってこそのものであるのだ。
そして、光を際立たせるために、
闇の存在は、不可欠なのである。
闇と光は、相対する存在では決して無い。
キリスト教の幾つかある暦の一つによると、
冬至は、キリストの使徒の一人である聖トマスの祝日だと言われている。
トマスは、
十字架に架けられて亡くなったキリストが、
自分自身の言葉通り、3日目によみがえり、
トマスの元に現れた際、
ただ目で見ただけでは、我が師の復活の事実を信じて受け入れることができなかった。
キリストの脇腹の傷に指を入れて初めて、
よみがえりを信じた人、と、聖書に記されている。
不信、疑いという闇の先に、新しい信仰の光がある。
その折り返し地点を、冬至になぞらえた暦であると言われている。
今、わたし、Giovanniの心を覆う厚い闇の雲が、
突然晴れて、
今までとは違う新しい光を見る日は、すぐ間近である。
今年の冬至は12月22日。
もう目の前である。
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