
桜が咲く頃になると、何故こうも気持ちが騒ぐのだろうか?
誰もが、そわそわして、普段は、花のことなんか、
全く気にもしていないような人たちでさえ、
この特別な『花』については、やたら、敏感になったりするのが、
何だか微笑ましい。
今年は、気象庁の開花予想のデータ入力ミスという、
世界でも稀な花見という古典的な風習とは、
まるでかけ離れたような、可笑しなハプニングもあり、
随分早くから咲くと思われていたのに、
ちょっと後倒しになったり、
逆に、もう少し先だと思っていたのに、
思ったより、やはり早く咲き始めたりしたので、
それに翻弄され、一喜一憂した人たちも、たくさんいただろう。
わたし、Giovanniも、桜は大好きだ。
その花の一つ一つ、というよりは、
むしろ、多くの人が恐らくそうであるように、
固まりとしての桜に、多いに魅力を感じるのである。
未だ、足を運んだことはないが、
奈良吉野の山なみに、何千もの桜の木が、
白から濃い桜色まで、様々なグラデーションで、
あたかも山にかかった霞のように見える様は、
(映像や、写真でしか見たことはないが)
日本の四季の風景の中でも、
もっとも、日本の魂のようなものを揺さぶるシーンの一つ、
そう言っても過言ではないように思う。
その反面、日常生活の中で、
思いもかけないタイミングで、思いもかけない場所に、
大きな桜の古木などを発見し、
ぼんやりと霞のように印象に残るというよりは、
もっと間近に、その存在をはっきりと感じるような、
雄々しさを覚えるようなこともある。
桜の木の下で、宴に興じる人たち。
今年の桜はいつだろう?花見はいつにしよう?と、
ソワソワしていたはずであるが、
いざ、その木の下に席を設けると、桜の花の存在などすっかり忘れ、
上を見上げることもせず、
飲めや歌えの、大騒ぎになるのが、常のようだ。
わたし、Giovanni、の花見は、
自転車での帰宅途中、毎年、
あの角を曲がると立派な桜の木がある、と、覚えておいて、
いつもの道を少し遠回りしてみたりする、モバイル花見が主である。
どの町にも、桜街道、とか、桜並木、などと呼ばれる道があって、
夜の闇に、少しライトで照らされて、白く浮かび上がる姿は、
昼間の桜とはまた違った魅力がある。
もう一つ、
毎年、必ず訪なうのは、
近所のコンビニの前にある、見るからに老いた木で、
樹齢を重ねるままに、
無駄な枝を自らそぎ落としたかのような、シンプルな姿。
立派な体躯には、
ややアンバランスとも思われる程度にしか、花をつけないのだが、
何か、優しいだけではない、逞しさのような印象を与えてくれる木で、
コンビニで買った缶ビールを片手に、
今年もまた来ましたよ、と、ちょっと目配せをしながら、
乾杯のポーズをしてみせると、
心無しか、嬉しそうな表情を見せてくれる。
フランス時代、5月になると一斉に白い花を咲かせる林檎の木の
ピュアな美しさに目を奪われた。
インドでは、年中、色鮮やかな赤や黄色の花をつける木々が、
至るところで目を楽しませてくれた。
花水木の並木、マロニエの街路樹、ブーゲンビリアやハイビスカスの垣根・・・
どの土地に咲く、木の花たちも、
それぞれに、その土地で最も美しい姿を見せてくれるけれど、
日本の桜の、この土地にこそこの姿形と色が生まれた、と、思わせる、
キャラクターと土地の絶妙なコンビネーションは、
日本という土地の、かけがえのない美の財産だと言いたい。
いつか、わたし、Giovanniも、
雅な人たちが、みな薄衣をまとって打ち揃い、
奥深い山を静かにそぞろ歩くような吉野の桜の群生の様子を、
見に行ってみたいと思うが、
今年は、とりあえず、いつもの老木の下で、
静かに『乾杯』と、ビールの缶を、掲げるとしよう。
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